≪全文≫
もちろん、このような私の「極論」には異論も出される。
たとえば、国際法ではきちんと戦闘行為に入る意志を表明しなければいけないと書いてあるのに、あのときの日本政府の最後通告には、対米交渉を打ち切るという文言はあっても、宣戦布告が明記されておらず、本来の意味での開戦通告になっていなかったという意見がある。
実は、昭和16年(1941)12月1日の御前会議で対米開戦が裁可された2日後の12月3日に、条件付き開戦宣言を含む「帝国政府の対米通牒覚書(案)」が起案されていた。ところが、五日付案になると宣戦布告の部分が意図的に削除されてしまっていたというのである。
こうした、たび重なる対米通牒覚書の内容変更の背景には、軍部の大きな圧力があった。海軍側は、奇襲攻撃を成功させるために、開戦の通知をギリギリまで遅くせよ、と外務省に強硬に迫っている。外務省からすれば「それさえなければ」ということだ、という主張である。
また、当時駐米日本大使館にいた井口貞夫参事官の息子さんの井口武夫氏が、パール・ハーバーは駐米大使館員たちにとって青天の霹靂だったと戦後に話しているという。つまり当時は日本軍によるハワイ空襲など、とても考えられないような状態で、そこにいきなり長文の電報が送られてきて、翻訳やタイプに手間取ったという背景があるというのである。
この話を受けて、出先の駐米日本大使館よりむしろ、東京の本省の責任が主だったのではないか、とする主張もある。だいいち、宣戦を布告するなら日本の外相が東京の在日アメリカ大使を呼びつけて開戦を通告すれば、法的には何の問題もなかったではないか、というのである。それはまさに、昭和20年8月9日のソ連対日参戦の際、モロトフ外相がモスクワで佐藤尚武大使に対日宣戦布告を行なったのと同じ方法だ。
してみると、本来は東京の外務省本省の責任が「主」であったにもかかわらず、その罪を駐米日本大使館に押し付け、そのために責任をかぶるかたちになった大使館員たちは気の毒なので出世させたのではないか、という推論になる。
私には、その背後の事情はよくわからない。ただ、私自身は、当時のことを知る外交官に、ワシントンの日本大使館のそのときの状況を聞いて、確認はしている。そもそも、前日に送別会をやったために間に合わなくなり、「何時に渡せ」といわれている命令...
すでにご登録済みの方はこちら
概要・テキスト
ショー (DD-373)の爆発炎上
昭和16年、御前会議で対米開戦が裁可された後、条件付き開戦宣言を含む「帝国政府の対米通牒覚書(案)」が起案されていが、数日後には宣戦布告の部分が意図的に削除されてしまっていた。内容変更の背景には、軍部の大きな圧力があった。海軍側は、奇襲攻撃を成功させるために、開戦の通知をギリギリまで遅くせよ、と外務省に強硬に迫っていたという。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第七章・第2回。※本項には該当映像がありません。
時間:00:09
収録日:2015/02/02
追加日:2015/09/21
収録日:2015/02/02
追加日:2015/09/21
カテゴリー:
会員登録すると資料をご覧いただくことができます。