●「幸福」について考えるのは難しい
津崎 皆さん、こんにちは。筑波大学でフランス哲学の教育と研究をしております津崎良典と申します。テンミニッツTVでは、すでにデカルトについて何回かお話したことがありまして、今日は同僚の五十嵐沙千子先生とご一緒に、「幸福(しあわせ)」について皆さんと考えていきたいと思います。
五十嵐 筑波大学人文社会系の五十嵐沙千子と申します。専門にしているのは現代思想で、ハイデガーとかハーバーマスとか、それから哲学カフェを中心に研究しています。津崎先生とは仲良しで。
津崎 そう。仲良くしてもらっています。
五十嵐 今日はご一緒にお話ができるというので楽しみにしてきました。よろしくお願いいたします。
津崎 ご紹介にもありましたが、五十嵐先生はドイツの哲学がご専門で、わたしはフランス。ということで、ライン川を挟んで隣同士の国です。
五十嵐 ときどき戦いますよね。
津崎 ときどき。でも、基本的に仲良くやってきている国の哲学が、各々の専門になっています。今日は、「幸福について話してほしい」というお題をいただいたわけだけれど、困るよね(笑)。
五十嵐 なんで、ですか。
津崎 どの哲学者をとってもそうだけど、例えばセネカという古代ローマの哲学者がいます。彼は文字どおり『幸福な生について』という本で、「幸せな生とはいったい何だろうか」と書いている。そのなかで言っているのが、「人はみな本性的に(生まれつき)幸せになることを求めている。でも、『一体幸せとは何なのか?』と問うた途端、それはあいまいになってしまう」。だから難しい、ということです。結局、みんな幸せになりたいと思っているのだけれど、何が幸せなのかには一つの答えがない。そういう意味で難しい。
●「幸せじゃない」から「幸せになりたい」のか
五十嵐 なんで「幸せになりたい」と思うんでしょうかね。「幸せじゃない」と自分のことを思うわけですけど、なんで自分は幸せじゃないっていうデフォルト(前提)で話すんでしょうね。
津崎 幸せって、変な話だけれど、何かが欠落してなきゃいけないわけでしょう。欠落しているからこそ、そうではない状態になりたい。つまり、幸せになりたいということは、実は自分たちはその反対で、幸せの欠落状態にあるということに薄々気づいている。あるいは文字どおり「自分にはこれが欠けているんだ」と自覚している。いずれにしても、「幸せになりたい」という思いは、「自分はそうではない」という現状認識がないと生まれてこないじゃない?
五十嵐 うん。でも、思うんだけど、幸せじゃない=「わたしは幸せじゃない」というふうに自分のことを認識していると、ずっと幸せになれないんじゃないのかな。だって、「わたし」は「幸せじゃない人」だから、いくら埋めようとしても「わたし」という人が「幸せなわたし」になることは無理なんじゃないかと思うんですよ。
津崎 どういうこと?
五十嵐 例えば、わたしは女だと思っていて、だから「男になりたい」と思っても、いくらわたしが男になっても、心のどこかで「でも、わたしは本当は女なんだ」っていう気持ちがずっとあるから。アイデンティティというか。
津崎 つまり、じゃあ「幸せになりたい」「幸せだ」と思った瞬間、実は幸せを演じているだけということ?
五十嵐 うん。そもそも幸せに「なりたい」というかたちは、「ない」というのがあるからで、「幸せになりたい」と思っているかぎり「わたしは本当は幸せじゃない」という気持ちがずーっとあって。
津崎 ずっとある。
五十嵐 だから、おなかの空いた人みたいに、いろんなものを自分のなかに、入れても入れても足りないというか。「わたしは幸せじゃない」と思うから、何かを入れてほんの少しの間はちょっとおなかがいっぱいになった気がするけれど、すぐ空いちゃって、「また入れなきゃ」「また入れなきゃ」と、結局ずっと「足りないわたし」をやっちゃうんじゃないかと思う。
●「幸福は幻影だ」といったショーペンハウアー
津崎 五十嵐先生はドイツ‥‥。
五十嵐 「さっちゃん」でいいです。
津崎 「さっちゃん」(笑)。「哲学カフェ」ではあだ名で呼び合っているんだけど、じゃあ、ここからは「さっちゃん」で。
五十嵐 (津崎氏を紹介して)「マイク」。
津崎 「マイク」です(笑)。さっちゃんはドイツが専門でしょ。ショーペンハウアーという哲学者がいますね。
五十嵐 ええ。あの不幸な人ね。
津崎 まさに、なぜあんなふうに不幸になれるんだろうと、逆に...