●和歌に堪能だった武士たち
―― そういうかたちで侍所別当だった和田義盛が倒れてしまう時代に入るわけですが、合戦の直後には(源)実朝が『金槐和歌集』を出すことになります。実朝というと、なんとなく一般には「和歌をやっていましたね」「蹴鞠をやっていましたね」というような話が非常に印象深いと思います。しかし、坂井先生は実朝が実はひ弱な将軍ではなかったとお書きになっています。これは、どういうことになりますでしょうか。
坂井 確かに(源)頼家に比べて実朝というのは、運動能力の点でちょっと劣っていたのか、気性の荒々しさが違っていたのか、武芸を自分自身で行うという点ではそれほど優れたところはなかったと思われます。その代わり、和歌や蹴鞠のようなものには長じていました。それが、明治以降の近代人からすると、「武士なのに何を和歌など詠んでいるのだ」「文弱だろう」というイメージで捉えられてきたわけです。
しかし、そうではありません。たとえば北条泰時や和田朝盛も和歌を詠みますし、「宇都宮歌壇」といって、宇都宮氏などは自分たちの歌壇をつくるほど和歌に堪能でした。武勇に優れた梶原景時や、その息子で豪傑として非常に有名な景季も和歌を詠んでいるのです。だから、武士も和歌を詠むのです。
―― 武芸とともに、大和心というとおかしいですが、「情」の部分もよく分かっていないといけなかったということでしょうか。
坂井 そうですね。「文武両道」という言葉がありますが、そういう武士たちも、たくさんいました。たくさんと言うとやや大袈裟ですが、少なからずいました。
さらに実朝の場合は、幕府の頂点に立っているトップですから、当然、朝廷のトップと交渉しなければいけない。治天の君である後鳥羽上皇 、土御門天皇から順徳天皇にいたる天皇、さらに摂政や関白のような上流貴族とも交渉をするのが、鎌倉殿、征夷大将軍である実朝の務めであるわけです。
武芸一辺倒で、東夷(あずまえびす)で、和歌も詠めないのか、蹴鞠もできないのかということになると、やはり馬鹿にされてしまうわけです。
●「政(まつりごと)のツール」として和歌を詠んだ実朝
坂井 そもそも和歌というのは、神々や仏様、神仏を喜ばせる大和言葉なんですよね。そのことによって天下泰平というものをつくりだそうというツールでもある。
かつて私は、これを「和歌は政治のツールであった」という言い方をしていたのですが、どうも現代人の政治という考え方とそぐわないと思うようになりました。それで、誤解を生まないように「政(まつりごと)のツール」 として和歌や蹴鞠があり、ほかにも音楽や学問、漢学などのものがあるのだというふうに捉えていただきたいと思います。
ですから、幕府のトップとして朝廷のトップと渡りあうためには、そうした「政(まつりごと)のツール」を身につけなければいけないのです。
しかも実朝の場合には、和歌の才能に恵まれていた。現代の和歌の研究者として天才的と言われている渡部泰明さんという元東大教授の方がいらっしゃいます。私も非常に親しくさせていただいていますが、渡部氏によると、実朝はやはり天才的な歌人だったという評価です。
そのように「政のツール」に天才的な才能を持っていた実朝は、当然、和歌を詠まずにはいられないわけです。そして、ちょうど朝廷のトップである治天の君・後鳥羽上皇も『新古今和歌集』という勅撰和歌集をほとんど自ら作るようなかたちで編纂した、著名で優秀な歌人です。
―― 勅撰和歌集と言いますが、実際に天皇や上皇という方が自ら選ぶことは、そうあるわけではないのですよね。
坂井 そうあるわけではないというか、もう他にはないですね。唯一と言ってもいいです。そのぐらい自分自身が優れた歌人であった後鳥羽上皇と友好関係を結ぶ。なにしろ名前ももらっていますし、御台所も(後鳥羽上皇の)いとこをもらっている。そういう関係にあった実朝は、和歌という政のツールを通じて、朝幕関係友好に貢献しているわけです。
●『金槐和歌集』と和田合戦、そして鎌倉大地震
坂井 そのために和歌をたくさん詠んでいた。それを自分で取捨選択して、配列などを決め、詞書きも自分で書いて歌集にまとめたのが、和田合戦の後ぐらいだと思われます。
それまでに詠んでいるわけですから、和田合戦の年に詠んだのではなく、それまでに詠みためていたものを編集していたら和田合戦が起こってしまった。それで、和田合戦の後に最終的な編集が終わったというふうに考えられます。
―― 当時、彼はまだ若いですよね。
坂井 まだ22歳です。
―― そこでまとめたというのは、どういう思いだったのでしょう。
坂井 それまでずっと詠んできましたから、ここで一応ひと区切りつけるとい...