●「政所別当九人制」の導入
―― そこで(和田合戦以降)、(源)実朝の政治が非常に安定して力強くなっていくということですが、ここで「唐船を造る」という話が出てきます。なぜ唐船かというのがわかりにくいのですが、先生、これはどういうことになるのですか。
坂井 これは『吾妻鏡』 に書かれている記事を100パーセント信用することはもちろんできませんので、ある程度の情報は得つつ、客観的に言ったらどうなのだろうかということを考えていかなければいけません。
建保4(1216)年になると、いくつか変化が生じます。一つは後鳥羽上皇が実朝を官位の面で強力にサポートしはじめるということ。私は後鳥羽上皇を「稀代の帝王」と呼んでいますが、万能の帝王であり、朝廷のほうでも絶大なる権力を持っています。その後鳥羽上皇が完全に後ろ盾になったというのが誰の目にも分かるような状況が出現して、実朝はさらに将軍親裁の権威を増大させるようになっていきます。
それは、直訴を受け付けるとともに、(鎌倉幕府の)政所の別当に院近臣の御家人を加えるようになったことです。御家人は、鎌倉殿(将軍)と主従関係を結んでいますが、京都住まいの御家人は同時に上皇との間でも、主従関係とは若干違うかたちですが、近臣として仕えるということを行っている時代です。これは学問上「両属関係」と言いますが、そういう院近臣にはかなり権威があります。このような御家人のなかでも源氏の一門で、院近臣になっているような人たちを、(鎌倉幕府の)政所の別当に加えたわけです。
相対的に(北条)義時たちの地位は下がりますが、それを合わせて9人になる。9人も船頭がいると、船は山に登ってしまうのではないかと普通は考えます。しかし、当時の政所は、たとえば摂関家や京都の有力貴族の政所などは、10人の別当がいるのは当たり前でした。むしろ、政所下文 (まんどころくだしぶみ)にそれだけ何人もの別当が肩書きを連ねていくことが、その下文の権威を上げることだと考えられた時代なのです。
そこで後鳥羽上皇の後ろ盾を強力に得ている実朝は、政所の権威も高めるために、院近臣の御家人たちを加える。そして9人も別当として署判させるというような策に打って出る。これによって、将軍の権威は非常に増大します。
●宋の工人・陳和卿と実朝の対面
坂井 将軍の権威が増大していた建保4(1216)年に、ちょうどたまたま、陳和卿という宋の工人が鎌倉に来ます。東大寺の大仏再建に携わった人物で、ちょっと胡散臭いところもありますが、技術者としては、なかなかのものだったようです。その陳和卿が、理由は分かりませんが、なぜか鎌倉にやって来て、(源)実朝に拝謁する。
どうも当時、京都と鎌倉の間にはかなり人物の交流があったようです。京都であまりうまくいかない人が鎌倉に新天地を求めて来るようなことが、よくありました。大江広元などもそうでしたが、陳和卿もそうだったのかもしれないと思われます。
実朝に拝謁した彼は、「実朝の前世は、中国の医王山の長老だった」 という話をします。前世がどうというのは、現代人にとっては信じ難いことですが、当時の人にはリアリティがあったようです。
医王山というのは、アショカ王を祀っている中国のかなり著名なお寺(阿育王山阿育王寺)で、アショカ王は仏教を興隆させた王として有名です。またここは、仏舎利(仏の遺骨)を讃える、舎利信仰の聖地でした。当時、舎利は王権(王の権力)とも関係しているというふうに考えられていたようです。そういう舎利信仰の聖地である医王山の長老だったということを、陳和卿は実朝に言うわけです。
実朝は、「自分も同じような夢を見た」と応じます。これは、本当に夢を見たのか、見ていないけれども陳和卿の言葉を利用しようと思ったのか、その辺はよく分かりません。
ただ、実朝は夢を見て、その夢のお告げがあったと言いました。当時の人にとって夢のお告げは、神仏のお告げと同じです。神仏が夢を通じて人に何か啓示を送るというような考え方が一般的に信じられていた時代です。
実朝の夢のお告げは、案外、これまでにもいろいろなところで的中することがありました。ですから人々は、「この人は神仏に通じる神秘的な力を持っているのではないか」と思っていたようで、陳和卿と同じ夢を見たということで、さすがにびっくりしたわけです。
●唐船建造の真の目的とは?
坂井 (源)実朝が実際にそんな夢を見たのか、陳和卿の言葉を聞いて利用しようと思ったのかは分かりませんが、実朝は「宋に渡りましょう」と言います。『吾妻鏡』では「実朝自ら宋に渡り、前世の医王山に参拝しようと考え、唐船(宋に渡る大きな船)を造らせるように命じた 」と書いてあります。
しかし、少し考えてみると、将軍はそ...