●明君と暗君の違い
それでは、第二章へ参りたいと思います。「貞觀二年、太宗、魏徴に問いて曰く、何をか謂いて明君・暗君と爲す」。暗君、平凡で凡庸な君主と、明君、実に素晴らしい君主は、どうして差が出るのか。その差はどこにあるのだ。太宗が魏徴に聞きます。
「徴對へて曰く、君の明かなる所以の者は」。明君と言われた人を徹底的に解明していくと、皆、共通して持っている一点がある。「それは何なのだ」と聞くと「兼聽(けんちょう)すればなり」。これは「兼ね聴く」ということです。どういうことかというと「兼ね聴く」ですから、セカンド・オピニオンということです。一人の意見を聞いて、それで満足してしまわず、反対の立場に立つ人にも、「君の意見はどうだ」ときちんと聞くということです。セカンド・オピニオンをどんどん繰り返していくと、いろいろな人に意見を聞くことになる。これが、兼聴の非常に重要なところです。
反対に「暗き所以」、暗君というものはどこが暗いのかと言えば、「偏信」、偏って信ずるということです。一人の人間の言うことしか信じないのが偏信です。魏徴は、詩経にこういうくだりがあると言います。「先人言へる有り、芻蕘(すうぜい)に詢(と)ふ」。詩経の中にも、トップになったならば芻蕘に問うということが重要だとある。芻蕘とは何かというと、草刈りや木こりのことで、非常に卑しい人の象徴です。身分が非常に低い人のことです。その身分の低い人でも、例えば山の状態は彼らが一番よく知っていますし、草木の状態も一番よく知っています。そういう人にも、きちんと意見を求めることが重要なのです。(身分が低いからといって)馬鹿にしないということです。
●中国古典で繰り返し指摘されてきた「よく聞くこと」の重要性
論語にも、そういう例がたくさんあります。まず「学びて敏」。学ぶことは敏速にしなさい。「(漢字は)どうやって書いたかな」「あの漢字はどういう風に書いたのか」と疑問に思っても、「そのうち調べましょう」と言っていては駄目です。すぐに辞書を引く。全部疑問を一つ一つ解決して、先へ行けという意味です。似たような意味で、「下問(かぶん)を恥じず」という言葉も、論語にはあります。下の者に聞くのも恥ずかしくない、厭わないということですが、「芻蕘に詢ふ」とは同じ意味です。
「昔、堯舜の治は」。堯と舜は明君です。...