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冷戦期、イデオロギー闘争は核開発競争を伴って加熱

国家の利益~国益の理論と歴史(8)冷戦期の「戦争と平和」

小原雅博
東京大学名誉教授
情報・テキスト
ヤルタ会談
第二次世界大戦が終盤に入る1945年2月にヤルタ会談は開かれた。以後、アメリカ中心の資本主義国陣営と、ソ連中心の共産主義国陣営の間で東西冷戦が本格化する。その後の歴史から見て、ヤルタ会談はどう位置付けられるのだろうか。今回は冷戦期の国際政治の経緯とともに核開発競争についても考える。(全16話中第8話)
時間:11:30
収録日:2019/03/28
追加日:2019/07/14
カテゴリー:
≪全文≫

●ヤルタ会談の歴史的評価


 皆さん、こんにちは。第8回の講義は「冷戦期の『戦争と平和』」についてお話ししましょう。

 ファシズムに勝利した世界には、新たな分断と抑圧が出現します。それを決定づけたのがヤルタ会談です。スターリン、ルーズベルト、チャーチルという三人の指導者の取引によって、ソ連はヨーロッパでもアジアでも大きく勢力を伸ばし、それが戦後半世紀にわたって国際秩序を決定づけることになりました。

 2005年、ブッシュ大統領(ジョージ・W・ブッシュ)は、ヤルタ会談について、「安定のために自由を犠牲にした結果、ヨーロッパに分裂と不安定をもたらした。史上最大の過ちの一つだ」と批判し、ヨーロッパの分割を認めた点でアメリカにも責任があると述べました。ブッシュ大統領の属する共和党は、民主党大統領のルーズベルトが東欧をソ連に売り渡し、その後を継いだトルーマンの弱腰が共産主義の拡大を招いたと批判してきました。

 いわゆる「ヤルタ密約」についても、評価は分かれています。ソ連との対日参戦の密約が当時のアメリカの国益に適っていたかどうか、朝鮮やベトナムの分割、中国の共産化など、その後の歴史を見る限り、アメリカの長期的国益にとってプラスだったとは言えないでしょう。冷戦後30年たった今も冷戦構造の残滓が残る朝鮮半島や台湾海峡の対立と緊張は、ヤルタに発しているといっても過言ではありません。

 この歴史的会談に参加した三人のうち二人は、戦後秩序を構想しただけで姿を消しました。大戦終結の1945年という歴史的な一年が過ぎる頃には、ルーズベルトは没し、チャーチルは選挙に敗れて政界を去り、スターリンのみが戦後に向けた大国間の駆け引きを体験した指導者として新参者を翻弄することになったのです。共産主義は、ソ連の国境を越えてヨーロッパ大陸、そして世界に広がりつつありました。


●鉄のカーテンとソ連封じ込め


 1946年3月、首相を退任したチャーチルは、アメリカのウェストミンスター大学で講演し、ヨーロッパにはモスクワの統制を受ける中東欧とわれら西欧を隔てる「鉄のカーテン」が降ろされ、暗黒時代に逆戻りするかもしれないと警鐘を鳴らしました。そして、自由と民主主義の確立のための団結を訴えたのです。

 チャーチルの講演を傍らで聴いたトルーマン大統領は、1947年3月、米議会で特別教書を発表し、ギリシャとトルコの危機の背後にソ連の影響力の浸透があることを示唆し、両国を支援することへの賛同を求めて、こう語りました。

「武装した少数者や外部勢力が征服を試みている。これに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならないと信ずる。」

 これが、いわゆる「トルーマン・ドクトリン」です。

 翌年、マーシャル国務長官は、ハーバード大学で講演し、「特定の国家や主義に対してではなく、飢餓、貧困、絶望、混乱に対して向けられる」大規模な復興援助をヨーロッパに供与する計画、いわゆる「マーシャル・プラン」を発表しました。

 トルーマン大統領は、「アメリカほど強力な経済でさえも貧困と欠乏の世界の中で繁栄を維持することはできない」と訴えましたが、その言葉通り、アメリカの繁栄はすでに世界の繁栄と重なり合うまでに大きくなっていました。ヨーロッパが共産化の波に飲み込まれつつあるとの危機感が広がりを見せる中、アメリカはトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランによって自由主義諸国を防衛する強い意志を世界に示したのです。それは「ソ連封じ込め」政策として、その後冷戦が終わるまでアメリカ外交の大戦略(grand strategy)となりました。


●核による「恐怖の均衡」「熱戦」となった朝鮮半島


 共産主義対自由民主主義というイデオロギー闘争は、核開発競争と地域紛争を伴って加熱していきます。アメリカが広島と長崎に原爆を投下した4年後には、ソ連も原爆の核実験に成功し、両大国は「核抑止」という言葉に追い立てられるように核開発競争に凌ぎを削るようになります。1952年にアメリカが最初の水爆実験を行うと、早くも翌53年にはソ連も水爆実験を行います。そして、70年代初めまでにイギリス、フランス、中国も水爆を保有したのです。世界は核戦争の脅威にさらされることになりました。

 そして、米ソの冷戦は、朝鮮半島で最初の熱戦となります。北朝鮮の金日成の野望に加え、両国指導者の誤算もありました。スターリンにとってはアメリカの参戦が、そして、トルーマンとマッカーサーにとっては中国の参戦がそれぞれ予想外でした。こうして朝鮮戦争は3年以上続き、核戦争の一歩手前まで行きました。膨大な犠牲と破壊の末に、スターリンの死もあって休戦しましたが、戦線は南下したり北進したりして、半島全土が荒廃し、南...
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