●神道の基本-神は見るものではなく感じるもの
霊力(アニマ)は(世阿弥による能といった)芸能など、そういう方向に発揮されていきましたが、もう一つ、正統的にはどこへ行ったのかというと、これは皆さんご存じの「神道」というものに行きました。ですから、なんとなく、要するに神社に行ってお参りして帰ってくるとすっきりするとか、何か元気になるとかいうことは、霊力(アニマ)を降り注ぐドラマと同じような機能が神社にはあるということです。
シリーズ内で「見えないものを見る」といった話をしました。神は見えますかといわれるのですが、見えないから意味があるのです。見えたらもうそれまでです。見えないものを追っていくということは、一生かかっても実体はつかめない。しかし、感ずることはできる。要するに非常に鋭い感性と深い精神性です。シリーズ内で言いましたが、「これだけは忘れてくれるな」という日本人の特性は、鋭い感性と深い精神性にあるのです。そのシンボルが神の存在であり、またそれが神道のあり方、基本でもあるのです。
●神道は実体をつかみにくい信仰
では神道とはいったい何なのでしょうか。外国の人はよく「宗教ですか」と聞くのですが、宗教とは言い難いですね。どうしてかというと、宗教というのは「教祖がいること」「教典があること」「他宗教を排撃すること」、この3つが存在の条件なんですが、神道には3つともないんです。教祖といったって、もうたくさんの神が祀られているから、誰が教祖なのかという問いが通じない。さらに、教典はあるのかというと、祝詞というのは降霊させる言葉ですから、教典ではない。それから、他宗教を排撃するのかというと、これからお話しするように他宗教も全部ウェルカムで、どんどん入ってきてくれということです。
「宗教とは言い難い」とは何なのかというと、とても実体をつかみにくい信仰であることです。「これが神です」と示さないで、神を感じてくれというわけですから。人によっては感じないとか、鈍感な人間では感じられないとかいうわけです。
したがって、日本人は「神とは何なんですか」と聞かれると、「言えないんだよ、そういうものは」となる。でも、これだけ神社があるということは何か感じているから、何かをつかんでいるから行くんでしょう。だから、それは「有難いもの」だと。でも、周りは「有難いものといったら金でしょ」と言う民族ばかりだから、「金よりもっと有難いんだよ」といわざるを得ない。では「それは何なんですか」と聞かれるので、もう1回神というものを探ってみる必要があると思うのです。
●自然そのものに神を感じる
そこで、本居宣長は(『古事記伝』で)何と言っているのか。
「迦微(かみ)とは古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云ふなり」
ということで、本居宣長は「尋常(よのつね)ならず、徳のありて、可畏(かしこ)き物」と言っているわけです。そういう存在を見つけて、大多数の人が信じている。そういう国である。そこが非常に重要なポイントです。
それは何か。日本の場合、多神教で神はたくさんいるけれども、どうしてたくさんいるのかというと、自然が全て神だからです。自然に神を感じるということです。要するに神々しい風景というものは全て神を感じるものなのです。
そういう意味で例えば、皆さんよくご存じの大神(おおみわ)神社は三輪山が御神体です。それから、宗像大社は沖ノ島が御神体です。いずれも自然というものが御神体になっているということです。つまり、われわれ日本人は自然というものをただ単に感ずるばかりではなく、神として感じている。そうした集団の一員なんだということで、そのことをもう1回探究してもらわなきゃいけないのです。
●あらゆるものに神を感じる感性を生かすべき
それが、古代の時代にそういう風習があったということだったら、それはそれでいいと思うのですが、そうではありません。いまだに神社はコンビニエンスストアよりあるわけでしょう。それが成り立っているということは、経済的に考えても、誰かが何かで金を出していなければ、成り立たないわけですよね。だから、私が言いたいのは「金より重要なものがある」ということなんです。それぐらいにわれわれは神というものを思っているということです。
その神とはどういうものかというと、大気、光、水、風、樹木、岩、森、川、山、そういうものなんです。それをそっくり神だと思う鋭い感性と深い精神性は偉大なものであり、これをこれから産業としてビジ...