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さて、ワシントン軍縮条約やロンドン軍縮条約など、世界で軍縮が大きな流れになっていた当時、実は日本では軍縮への志向がアメリカやイギリスよりもずっと強かった。
すでに進水を終えていた新鋭戦艦土佐を実験艦にして、魚雷や砲弾を浴びせて沈めたり、第一次・第二次加藤高明内閣(大正13年〈1924〉6月11日~15年〈1926〉1月30日)で陸軍大臣を務めた宇垣一成大将が、いわゆる宇垣軍縮で陸軍四個師団(高田、豊橋、岡山、久留米)を廃止したりしている。
宇垣軍縮について、それだけの兵力を、いきなり見えるかたちで削減することは反軍的だという批判もあったが、当時の世論はその政策を非常に歓迎した。
四個師団廃止といわれても、われわれにはピンとこないが、平時における師団の定員は1万人ぐらいだったから、当時の人にとっては相当大きな出来事だった。実際、四個師団の廃止によって、合計3万3894人が整理されている。師団の存在は町の誇りということもあったし、その地域の経済のことを考えても、消費を専門とするような数千人から1万人近くの人間がいなくなってしまうことは大きな痛手である。師団が廃止されることでその町が受ける影響は、ことのほか大きかった。キャリアや栄達を求めて軍人になった将校たちも、約2千人が失職している。
何より悲愴感が漂うのは軍旗返納式である。軍旗は初めて連隊が編制されたときに授与されるもので、連隊長と連隊旗手、および4人の将校と1人の指揮官の7人で天皇陛下から直接受領した。軍旗は部隊の象徴で、この軍旗のもとに皆が命を捧げるという意味があったのである。だから師団廃止にともない連隊が廃止され、軍旗を返納する際、皆が涙を流した。
しかし、軍縮を進めた宇垣陸相は馬鹿ではなかった。師団廃止で浮いた経費で航空部隊や戦車部隊を編制し、軍の近代化を推進した。また四個師団を削減する代わりに、学校教練を義務化し、定員外になった現役将校を配属将校として中学校以上に配置したのである。それまでは学校での軍事教練は行なわれていなかった。
当時、日本軍は近代化が非常に遅れていた。一例を挙げれば、第一次世界大戦で初めてタンク(戦車)が実戦に投入されたが、海外の新聞記事に「タンク」と出ていても、誰もそれが何なのかわからない。軍中央に問い合わせてもわからないので、最初から日本語で「タンク」と呼ばれるようになり、のちに「戦車」と呼ばれるようになったいきさつがある。
それぐらい、日本人は第一次世界大戦で一気に近代化された戦争のことを知らなかった。ヨーロッパの戦場では、タンクのみならず毒ガスや火炎放射器、飛行機が登場し、それまでとは戦争そのものが一変していたのだ。
日露戦争で連合艦隊作戦参謀を務めた秋山真之海軍少将(のち中将)が、大正5年(1916)3月に第一次世界大戦の視察にヨーロッパを訪れているが、「この戦争は日露戦争までとまるで違う。人間が戦うのではなく機械ばかりが戦っている。それを動かすのは石油だ。その石油は日本では産出しない。しかも、総力戦で壮年の男子はなべて軍隊に行ってしまっているが、工場も機械化されているので女性でも男の職人がつくるのと大差ない品質の武器を生産している。石油もなく、機械化も進んでいない日本は、もはや今後、戦争ができない国になった」といって、大変な絶望感を抱いたといわれる。そのためか彼の晩年は異常なところがあったらしい。
陸軍もヨーロッパに軍事調査員を多数派遣したが、「日本は陸軍では三流国に落ちてしまった。タンクも飛行機もない。向こうでは軍隊を動かすのはトラックだが、日本は駆け足だ」というような報告が軍中央に相次いだ。


