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第一次世界大戦に話を戻そう。
私は1974年に発刊した『ドイツ参謀本部』を書いた頃にかなり調べたが、結局、著名な歴史家たちは第一次世界大戦が起きた原因を特定しきれていない。私自身、いろいろと調べて不思議に感じたのは、第一次大戦はドイツが始めたように思われているものの、動員令を下した最後の国がドイツだったということだ。歴史とは複雑怪奇なものだと、つくづく思う。
これも、いまではわかりきっていることだが、日本は当初、第一次世界大戦に参戦する気はなかった。イギリスも、日本が第一次世界大戦に参戦することで発言力を拡大させても困るので、積極的に参戦を求めることはしなかった。
ところがいざ戦線が拡大しだすと、ドイツ軍は圧倒的に強く、これは大変だということで、日本に重ねて参戦を要請したのだ。
第一次世界大戦には、第二次大隈重信内閣(大正3年〈1914〉4月16日~5年〈1916〉10月9日)、寺内正毅内閣(大正5年〈1916〉10月9日~7年〈1918〉9月29日)、原敬内閣(大正7年〈1918〉9月29日~10年〈1921〉11月13日)の3内閣が関わっている。
第二次大隈重信内閣では当初、三菱財閥創始者・岩崎弥太郎の女婿である加藤高明が外務大臣を務めたが、同内閣では、「日本陸軍は自衛のための軍隊であり、ヨーロッパには派兵させない」と断っていた。
当時、日本がヨーロッパへの派兵を断らざるをえなかったのもうなずける。軍部の資料にも、そんなことは不可能だと書いてある。なぜなら、まず、輸送力が不足していたからだ。実際にその後、日本が陸軍を派兵したのもシナ大陸の周辺国だけであるが、それでも兵隊一人につき3トンの輸送船が必要だった。ヨーロッパに派兵する場合、一連隊もしくは一旅団を出すだけでは独立して戦闘が可能な戦略単位にならず、イギリス軍やフランス軍などの外国軍の指揮下に置かれてしまう。日本軍単独で大規模な作戦を遂行するには、三個師団は必要だった。そこで計算してみると、兵員や装備の輸送には、日本が保有する全船舶の約半分が必要なことがわかった。
そういう台所事情はあったにせよ、対外的には、日本陸軍は自衛のための軍隊だと明言したので、イギリスのグレイ外相は、日本の姿勢は実に禁欲的で立派だったと褒めている。同時に、そういうところを褒めつつ、どうしても日本に参戦してもらいたいと望んだわけだ。
そのうちにドイツ東洋艦隊が太平洋を暴れ回るようになり、イギリスからの何回かの要請を経て日本も参戦することになり、ドイツが青島に築いた要塞を攻略しようということになった。青島要塞は非常に堅固だったが、神尾光臣中将率いる独立第十八師団が簡単に落としてしまった。ちなみに、このとき初めて陸軍航空隊が作戦に参加し、偵察や観測などを行なっている。
ところが、さらにドイツが通商破壊作戦を広範囲に展開し、連合国に大きな打撃を与えたことから、イギリスはドイツの武装商船を撃破するため日本に艦隊派遣を要請した。日本海軍は第一次大戦開始直後の大正3年(1914)8月21日に巡洋戦艦伊吹と軽巡洋艦筑摩、同10月1日に重巡洋艦日進を加えて3隻を派遣し、ドイツの通商破壊艦エムデン号の追跡に当たっている。
続いて大正6年(1917)2月にドイツが無制限潜水艦戦を宣言すると、イギリスは日本にさらなる艦隊派遣を要請した。それでも日本は、日英同盟の適用範囲はインドまでだから、海軍を派遣することはできないと断った。
ところが日本の商船もドイツの潜水艦に撃沈される被害を受けたことから、日本はイギリスの要請を受け入れ、地中海、インド洋、南アフリカ、オーストラリア方面に艦隊を派遣して連合国の船舶保護に当たった。そこで日本の艦隊は実によく働き、連合国から非常に感謝されている。


