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日本の近代史の大きな転換点は明治天皇の崩御だった

本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(1)「明治精神」の死

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
明治天皇
1912年7月29日、明治天皇の崩御は、いわゆる「明治の精神」が死んだという意味でも、当時の日本人に大きな衝撃を与えたという。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第二章・第1話。
時間:05:54
収録日:2014/12/15
追加日:2015/08/17
≪全文≫
 昭和史は、大正時代と切っても切れない関係にある。そして、その大正時代を方向づけた大きな出来事こそ、明治天皇の崩御(明治45年〈1912〉7月29日)であった。これこそまさに、日本の近代史の大きな転換点だった。

 明治天皇の崩御はいわゆる「明治の精神」が死んだという意味でも、当時の日本人に大きな衝撃を与えた。夏目漱石の『こころ』に出てくる「先生」も、主人公に宛てた手紙の中で、

〈すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御(ほうぎょ)になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。私はあからさまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうとからかいました〉
(夏目漱石『こころ』)

 と書き、自殺の決心を打ち明けている。

 明治天皇の死、乃木大将の死を受けて、漱石が小説の登場人物を死に向かわせたくなるほどの雰囲気だったのだ。また、森鷗外も『興津弥五右衛門の遺書』で同じテーマを扱っている。

 実際、明治天皇が亡くなられた頃から、日露戦争に勝利したあとの戦勝気分が薄れ、日本人の心がなんとなくたるみ始めてきたような気がする。

 そもそも、日露戦争に勝ったと気分が高揚するのはいいにしても、それで驕(おご)りや気のゆるみのようなものが生じたこともあったのではないかと思う。

 その一つが、第二次西園寺公望内閣(明治44年〈1911〉8月30日~大正元年〈1912〉12月21日)のときに起きた二個師団増設問題である。

 当時、陸軍大臣だった上原勇作中将(のち元帥)が、ロシアの脅威や朝鮮併合にともなう常設師団の駐留を理由に二個師団の増設を求めた。西園寺首相が財政難を理由にその要求を断ると、上原勇作という人は、いわゆる帷幄(いあく)上奏権を使って即位直後の大正天皇に直接訴えることまでやった。結果、上原陸相は単独辞職することになるが、陸軍は後任の陸相を出さず、西園寺内閣は総辞職したのである。

 明治憲法には内閣総理大臣についての規定がなく、内閣総理大臣も他の国務大臣と同格だった。要するに、当時の内閣総理大臣は内閣の取りまとめ役のようなもので、ある問題で大臣の意見が対立した場合、事態に収拾がつかなければ、閣内不一致で全閣僚が辞表を提出せざるをえなかった。

 第二次西園寺内閣もその例に漏れず、総辞職の憂き目に遭い、後継内閣として第三次桂太郎内閣(大正元年〈1912〉12月21日~大正2年〈1913〉2月20日)が成立した。

 この第三次桂内閣は、政党政治によらず官僚が中心となって組織する「超然内閣」といわれて非常に評判が悪かった。元老・山県有朋も、自分が引き上げてやったと思っていた桂太郎(最終階級は陸軍大将)が同じ爵位の公爵になったので、良い感情を持っていなかった。しかも第三次内閣の頃の桂太郎はあまりにも自信満々で威張りくさっていた。また病気も進行していた。

 誤解なきように補足をすると、桂太郎は日露戦争当時の首相であり、日露戦争勝利をもたらした大変立派な首相である。そのことは現代のわれわれがけっして忘れてはならないことであろう。戦前に一世を風靡(ふうび)した評論家・徳富蘇峰も、「人を評価するなら、その人が一番良かったときでなければならない。桂を評価するなら日露戦争の頃の彼であり、豊臣秀吉を評価するなら、高松城の水攻めを終えて引き返してからしばらくの間だ」ということをいっている。
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