≪全文≫
このような対ソ干渉戦争はあったものの、総じていえば、25カ国が参戦し、主戦場となったヨーロッパに大きな惨禍をもたらした第一次世界大戦が大正7年(1918)に終わると、世界は一転して平和を希求するようになる。
後世の評価には諸説もあるが、強権的な軍国主義であるドイツが敗れ、デモクラシーを掲げる国が勝ったという認識が第一次世界大戦後の世界に広がった。それを受けて日本にも、デモクラシーや民主主義を礼賛する風潮が生まれている。
そのため、尼港事件に激昂した当時の日本人の間にも、徐々に「大戦が終わったのに、まだシベリアに兵隊がいるのは何事か」と、シベリア派兵に対する反対論が出始めた。「これは軍上層部の勲章稼ぎではないか」という批判さえあった。
日清、日露戦争では正味8カ月から1年半ぐらいしか戦争をしていないことから見れば、シベリア出兵は派兵期間が非常に長かった。陸軍は、極寒の地に同じ部隊をいつまでも置いておくわけにはいかないので、駐留部隊を頻繁に交代させていた。
結局、日本は第一次世界大戦への参戦自体を断っていたのに、シベリアには4年間出兵し、何の得るところもなく引き揚げることとなった。
当時の風潮がわからないと、理解できないことは非常に多い。実は当時、日本においても軍人を軽視する風潮が急速に高まっていたのである。
明治以来、軍人たちは威張っていた。とくに日露戦争では、論功行賞で多くの男爵や子爵が出たからなおさらである。ところが、第一次世界大戦でのドイツの敗北は、「軍人の敗北」のように受け取られた。
演習帰りの軍人たちは国民の冷たい視線を浴び、「軍人には娘を嫁がすな」とさえいわれるようになった。そのため軍人が軍服を着て町に出るのを嫌がって、私服に着替えて外出するという風潮さえ生まれていたのである。
一方、日本を意識してのことだと思われるが、アメリカは第一次世界大戦中にダニエルズ・プランと呼ばれる海軍拡張計画を立案し、総勢百数十隻の大艦隊をつくろうとした。
第一次世界大戦後もアメリカは建艦計画を立案したが、世界が平和を求め、戦争もないのに大規模な建艦計画を実行するのは難しく、軍備制限の気運が高まった。
そこでアメリカのハーディング大統領が、ワシントン会議(大正10年〈1921〉)を提唱する。
あとから考えると、アメリカの意図は、「アジアにおける日本の力を抑えよう」という点でイギリスと一致していたことは明白である。だが当時は、そんなアメリカの思惑がわからない。第一次世界大戦中は欧米が戦時下にあったために好景気だった日本経済も、欧州が戦争から立ち直ってくると、戦後は反動的な不況に見舞われていた。そんな背景もあって日本では、朝野を挙げてワシントン会議を歓迎した。
ワシントン会議には、首席全権の加藤友三郎海相に加え、幣原喜重郎外相と徳川家達(いえさと)貴族院議長の二人が全権として参加した。加藤首席全権は、彼の悪口をいう人がいないというほどの常識的な海軍軍人で、日露戦争の帰趨を決めた日本海海戦当時の参謀長という、申し分のない経歴の持ち主である。そういう人物だから、交渉を通じて「建艦競争を始めたらきりがない。国力のない日本にとっても良いことだ」と考えて、軍縮条約に調印したのであった。
その考え方は非常に筋が通っている。ワシントン会議では主力艦(戦艦)の現有勢力比率が米:英:日=5:5:3に定められたが、これは日本はアメリカ、イギリスに対して6割海軍でいくということだ。アメリカは太平洋と大西洋を握っていて、イギリスも全世界に植民地を多数抱えていたから無理もない。これは国民も納得する議論である。


