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イギリスは日本に対し、日本が参戦する場合、派兵に必要な費用を負担し、講和の際に日本に有利な条件になるよう交渉すると申し出る。具体的には、ドイツ領の南洋諸島と青島を含めた山東半島を日本に譲渡するという密約を、大正6年(1917)に交わした。
日本はすでに青島を大正3年(1914)11月7日に占領し、同10月19日までに南洋諸島を占領したほか、同11月1日にオーストラリアからヨーロッパに兵員を送るために派遣された輸送船団を巡洋戦艦伊吹が護衛している。
ところが余計なお節介というか、愚かなことに、日本政府はシナにドイツに対する宣戦布告を勧めてしまったのだ。シナがドイツに対して宣戦布告しなければ、交戦国とは認められないから、戦後の講和条約でシナは賠償等の権利を主張することは不可能である。それが日本に有利に働くことは明らかなのに、余計なことをしたものだ。結局シナは日本に勧められ、ドイツに対して形式上の宣戦布告を行なったが、これが後述するように、日本にとってマイナスになる。
4年3カ月にわたって戦われた第一次世界大戦が終結してまもなく、大正8年(1919)1月18日にパリ講和会議が始まり、6月28日にベルサイユ講和条約が調印された。これは有名な話だが、イギリスはきちんと約束を守り、日本は密約通り山東半島と南洋諸島の権益を認められている。
話が前後するが、第一次世界大戦中の大正4年(1915)1月に、第二次大隈内閣は対支21カ条をシナの袁世凱政府に提出している。当時の外務大臣は加藤高明だが、第一次世界大戦の参戦をめぐって元老と協議する中で、元老から不信感を買うなど批判が多かった。
ただし、日本がこの対支21カ条を提出した背景には、日清戦争の折の三国干渉が当時の日本人にとって、いわゆるトラウマになっていたことを挙げる必要はあるだろう。
第1号から第4号までは、山東省に関する条約(第1号)、旅順と大連の租借権および満鉄権益の期限を99カ年に延長することなど(第2号)、製鉄会社の漢冶萍公司(かんやひょうこんす)の合弁について(第3号)、福建省の沿岸を外国に割譲したり貸与したりしないこと(第4号)を要求したものとされている。
だが、たとえば山東省に関する条約も、ドイツが保有している山東省の権益について日本政府がドイツ政府と結ぶ協定を承認すること、...


