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つくづく思うのだが、幕末の維新や戦争の修羅場をくぐって鍛えられ、ガッツを身につけた先人たちは、素朴ではあっても時代を切り開いていくときに必要な歴史観と世界観はしっかりと身につけていた。
だが、第一次世界大戦前後になると、日本外交を引っ張るような人々は、明治以降に教育を受けて上り詰めたエリートになっていた。
たとえば対支二十一カ条を突きつけた折に外相を務めていた加藤高明は安政7年(1860)に生まれ、旧制愛知県立第一中学校、名古屋洋学校を経て、明治14年(1881)に東京大学法学部を首席で卒業。その後、三菱に入社してイギリスに渡り、明治19年(1886)に岩崎弥太郎の長女と結婚した人物である。
日英同盟破棄と四カ国条約・九カ国条約の締結があったワシントン軍縮会議の折の外務大臣であり、さらに不戦条約締結の際には全権を務めた内田康哉は慶応元年(1865)に生まれ、明治9年(1876)に同志社に入学するも、のちに退学し、明治20年(1887)に帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業。外務省に入省している。
また、日英同盟を破棄した折の全権代表(当時、外務次官)であり、その後、ロンドン軍縮条約締結の折の外相でもあった幣原喜重郎は、明治5年(1872)に生まれ、官立大阪中学校から、第三高等中学校を経て、明治28年(1895)に帝国大学法科大学を卒業している。ちなみに幣原の妻も岩崎弥太郎の娘(四女)であり、彼が最初に外相に就任したのも義兄・加藤高明が首相を務めた内閣の折であった。
これまで述べてきたように、当時の外交を率いた人々の「不見識の罪」はかなり重いといわざるをえないが、彼らの不見識は何に起因するものであったか。
ここで思い当たるのが、明治時代の教育の問題である。よく知られているように、明治23年(1890)に「教育勅語(教育ニ関スル勅語)」が発布されている。第一次大戦前後に日本を率いたリーダーたちのあり方を考えるうえでは、この教育勅語がなぜ編纂されることになったのかを見ておかねばならないと私は考えている。
明治時代の日本は大変な勢いで西欧の技術や制度を導入して、国家の近代化を成し遂げた。しかし、それでも日本古来の精神や、日本古来の美風が忘却されることはなかった。
実は、それを両立するのは、世界史的には類い稀なことである...
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近代化が進む中、明治天皇が心配されたのは進化論だった
本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(15)当時の指導者の不見識は何に起因するのか
上智大学名誉教授
概要・テキスト
種の起源
明治時代の日本は大変な勢いで西欧の技術や制度を導入し、国家の近代化を成し遂げた。しかし、それでも日本古来の精神や、日本古来の美風が忘却されることはなかった。その背景にはどのような要因があったのか? 上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第二章・第15話。
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