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この益田孝のような人物が、第一次大戦のときにいなかったことが、ある意味で、その後に日米開戦を決断せざるをえなくなった日本の不幸の始まりだったのかもしれない。
たしかに日本海軍も日露戦争中から軍艦の燃料を重油に切り替えるための研究を行ない、明治43年(1910)には戦艦薩摩、第一次世界大戦の前年である大正2年(1913)には戦艦金剛に混燃缶(石炭と石油の両方を使えるボイラー)が導入され、巡洋艦や駆逐艦には大正時代の早い時期に重油専焼缶が導入されている。
だが、石油の調達をどうするかという肝心のところを、どれほど真剣に詰めて考えていたのだろうか。
戦争をしようと思えば大量の石油が必要になる。だが、大井篤『海上護衛戦』(日本出版共同)によれば、日本国内における石油の年間消費量(昭和16年)は約350万トン(民間100万トン、海軍200万トン、陸軍50万トン)で、国内で賄えるのは30万トンの天然油と20万トンの人石(人造石油)だけだった。
これに対して、昭和14年当時における日本の石油輸入先はアメリカが81.2%で、オランダが14.3%である。明治以来、日本海軍の仮想敵国はアメリカだったにもかかわらず、石油の8割以上をアメリカに頼っていては、本来、対米戦争などできるはずがない。
陸軍はそれほど石油について深刻に考えなくてもよかったが、それでも満洲の撫順で油頁岩、いわゆるオイルシェールを開発するなどの工夫をしていた。
しかし、石油開発に真剣に取り組むのなら、アメリカの石油会社から技師を呼んで掘削させるべきだったと私は思う。アメリカが満洲で一緒に石油開発をやろうといってきたこともあるが、日本は断っている。満洲等での権益をめぐり、日本がアメリカと対立していたことはわかるが、向こうは石油技術の先進国である。精製技術でも当時の日本のはるか先を行っており、アメリカでは航空用ガソリンはオクタン価100が普通だったが、日本はオクタン価100のガソリンをついに精製できないまま戦争に負けた。
私は、満洲の開発は大変な成功を収めたと、いまでも思っている。実際、日本が戦前に満洲で建設し、残してきた膨大なインフラが、戦後のシナの経済発展に大きく寄与しており、昭和39年(1964)には大慶油田が開発された。
戦後に満洲で、これだけの規模の油田が開発されているわけだから、戦前の日本は、当時、世界の最先端を行っていたアメリカの技術を進んで導入するべきだった。石油問題を本気で考えていれば、「満洲にアメリカを入れてはいけない」などと了見の狭いことをいってはいられなかったはずだ。アメリカの石油会社を招致し、石油開発で儲けさせてもよかったのではないか。
それに対して、イギリスのアングロ・イラニアン社は第一次世界大戦直前の大正3年(1914)3月に、現在のイラクを含むオスマントルコ帝国の石油資源を管理するトルコ石油(イラク石油会社の前身)の持ち株比率の50%を握っている。あれだけ広大な砂漠の地に眠っていた石油に目が届いたこと自体、すごい話だ。
国際石油資本の一角を占めるロイヤル・ダッチ・シェルも、現インドネシアのスマトラ島で産出した原油を精製し、明治25年(1892)にシンガポールやマレー半島向けに灯油の輸出を始めている。
もちろん、すでに広大な植民地を抱えていたイギリスやオランダと、持たざる国である日本を比べるのは酷というものだし、それゆえにこそ、第一次大戦を観戦した日本の将校たちは大きな悩みを抱えることになるわけだが、しかし、それにしても、資源確保という視点を国家戦略としてもっと強固に抱くべきだった。


