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もう一つ強調しておかねばならないのは、石炭から石油へというエネルギー革命の問題である。日本には石油資源がないのだから、陸軍も海軍も、第一次世界大戦の教訓として、もっと危機感を抱き、早急かつ本気で取り組まなければならない問題だった。
第一次世界大戦前に、これから石炭から石油へのエネルギー革命が起こることを、最も早く理解したのはイギリスのチャーチルだった。
チャーチルは名門マールバラ家の生まれだったが、学校の成績が悪くて士官学校の受験に失敗し、二度目の受験で合格したものの点数が足りず、騎兵科に回された。軍歴もあまりなかったが、名門出身だけに、議会に出れば口も達者で頭も切れるということで頭角を現わし、明治44年(1911)に海軍大臣となってイギリス海軍の近代化に取り組んだ。日露戦争が終わったのが明治38年(1905)だから、彼が海相になったのが、その6年後ということになる。
日露戦争を境に、兵器開発にも大きな変革が起こっていた。たとえば長距離の砲戦に圧倒的に有利なイギリスの戦艦ドレッドノートが登場し、従来型の戦艦を一気に旧式のものにしてしまった。そのため、各国でドレッドノートに対抗しうる、いわゆる「弩級戦艦」(弩はドレッドノートの略語)の建艦競争が起こっている。
もう一つの大きな変化は、軍艦が重油を燃料とするようになってきたことである。
当時のイギリスの海軍大臣には、4人の提督がアドバイザーに就いたらしい。チャーチル海相が「機関の燃料を石炭から重油に替えるという話があるが、どう思うか」と4人に聞くと、3人は従来通り、石炭でいいのではないかと答えた。イギリスには国内に石炭があったから当然である。ところが、第一次大戦でイギリス海軍の軍令部長を務めることになるジョン・フィッシャー提督は相当の変わり者で、彼は「絶対に重油のほうがいい」といったのだそうだ。陸軍出身のチャーチルも熟慮の末、やはり重油だろうと判断した。何といっても、石油は石炭よりも、はるかに熱効率が高い。そのためボイラーを小さくすることもできるし、同じ量の燃料でより長い航行距離を稼ぐことができる。しかも、石炭に比べて煙も少なく、また、積み込みの手間も大いに減少することができるのである。
チャーチルは、燃料を石炭から重油に切り替えるための作業に着手し、すぐにアングロ・イラニアン石油会社をつくって重油獲得の手も打った。当時イランでは細々と石油採掘を行なっていたが、それまで軍艦を走らせるのに石油を使った国はほとんどなかった。
不思議なもので、エネルギー革命は起きてしまうと一気に社会を変えていくが、それまで、その資源が広く使われていたかというと、そうでもない。
産業革命も、石炭からつくったコークスを熱源および還元剤として利用することで、大量の鉄を生産できることが発見されたことから起こった。いわば石炭によるエネルギー革命だったといえるが、それ以前に石炭を大々的に使っていた国はない。
日本にも石炭は比較的豊富にあったが、江戸時代に石炭を燃料として使っていたという話を寡聞にして知らない。
おそらく日本で一番早く石炭に目をつけたのは、三井の番頭役で三井物産(三井物産会社)の社長を務め、三井財閥発展の基礎を築いた益田孝だろう。文久3年(1863)、15歳で池田筑後守率いる遣欧使節団に随行した益田孝は、帰国後、明治4年(1871)に井上馨に勧められて大蔵省に入省。やがて井上馨が予算をめぐって大久保利通と対立し、大蔵大輔を辞任すると、益田孝もその後を追って職を辞し、井上馨らとともに、旧三井物産の前身となる貿易会社の先収会社を設立する。彼は英語に堪能だったので先収会社の頭取に就任したが、そこで三池炭鉱に目をつけ、払い下げを成功させて三井鉱山の発展の基礎を築いたのであった。これが端緒となり、日本は後年石炭の輸出国となり、三井鉱山は三井財閥のドル箱になったのである。
益田孝が石炭に目をつけたことが、三井財閥の発展のきっかけになったと同時に、日本はそのおかげで、エネルギー問題で苦労せずに日露戦争を戦うことができた。当時の軍艦は黒煙をもうもうと巻き上げて走り回っていた。作戦の必要上、高品位の無煙炭であるイギリス・ウェールズ産のカーディフ炭も輸入したが、それはあくまでも付け足しである。



チャーチル海相の海軍予算増額案を風刺した絵
(1914年1月14日『パンチ』誌)