≪全文≫
昭和初期の経済苦境の中で、マルクス主義は軍部の青年将校たちにも少なからず影響を及ぼしていった。
当時の陸軍の将校は、旧制中学4年を修了したあと陸軍士官学校予科に進み、士官候補生を経て陸軍士官学校本科で学んだか、あるいは旧制中学1、2年で陸軍幼年学校に進み、そのあと同様のコースをたどって陸軍士官学校本科に入学した人たちである(大正9年〈1920〉から昭和11年〈1936〉まで)。頭脳だけでなく、身体能力も抜群に優秀だった。
彼らは士官学校を出れば、小隊長ぐらいにはなり、20代前半ではあっても6、70人ほどの部下を持つようになる。だが、その部下たちは、典型的なところでいえば貧乏な農民の次男、三男、四男、五男であり、経済恐慌の折柄、士官学校出の青年将校たちは、部下から、自分の姉や妹が身売りをしたという話を聞くこととなった。
彼らは頭脳も身体も優秀であったが、残念ながら、学校の狭い世界を出たばかりで世間的な智恵がない。そこで彼らの純粋な正義感に、たちまち火がつくわけである。
農民や庶民を苦しめる地主や金持ちに加え、ろくに働きもしないで優雅な生活を送っている華族たちを亡き者にし、昭和維新を成し遂げようという気風が、一部の青年将校の中に相当強い調子で表われてきたのは、そういう理由からであった。
だが現実を見ると、たとえば農村の疲弊の責任を、すべて政府に押し付けるのもどうかと思う。農村が頻繁に冷害や干魃に見舞われたということもあるし、何といっても子供が多すぎた。
私が幼いときにも、田舎のよく知っている家の娘さんたちが東京に売られていった。売られるというより、親の借金のかたに東京に連れて行かれて、返済が終わるまで働かされたわけだが、実際のところは、むしろ喜んで田舎を出る娘さんたちも多かった。
この感覚は、現代の人には理解されづらいかもしれないが、当時の実感としては、実際にそうであったとしかいいようがない。もちろん、涙を流して遊郭などに行った人も数多くいただろう。だが、自分たちがつくった米も食べられないような農村に育ち、同じような農家に嫁に行き、泥にまみれて一生働くぐらいなら、都会に出ていい着物を着られるほうがいい、と思っていた娘さんたちが、たくさんいたのも事実なのだ。
もちろん観念的な部分では、貧乏のあまり、自分の部下の姉や妹が売られているということに対する青年将校たちの正義感もわからないでもない。しかし当時、農村を豊かにする方法があったかといえば、移民しかないといわざるをえないのだ。
農村でも田畑は限られているし、当時はまだ品種改良も、農業技術も、肥料なども現在のようには進んでいなかったから、日本国内だけでは食べるものさえ賄えなかった。ところがアメリカで排日移民法(大正13年〈1924〉)が成立したため、かつてのように日本人がハワイや西海岸などに移民することもかなわなくなってしまった。
本章の冒頭で紹介した『青年日本の歌』(『昭和維新の歌』)が、青年将校たちの間に連綿として歌い継がれていったのは、そういうことを背景にしてのことであった。
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情報・テキスト
昭和初期の経済苦境で、一部の青年将校の中に昭和維新を成し遂げようという気風が相当強い調子で表われてきた。しかし、農村の疲弊の責任を、すべて政府に押し付けるのもどうか。当時、田舎の娘さんたちが親の借金のかたに東京に連れられていき、返済が終わるまで働かされたが、喜んで田舎を出る娘さんたちも多かったという。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第三章・第7話。
時間:04:23
収録日:2014/12/22
追加日:2015/08/24
収録日:2014/12/22
追加日:2015/08/24
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