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薩摩次第で長州の命運が大きく動く薩長同盟

明治維新とは~幕末を見る新たな史観(14)薩長同盟の成立

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
坂本龍馬
第一次長州討伐がうやむやに終わったことで、長州は再び息を吹き返した。そんな中、薩長同盟が結ばれる。島田晴雄氏によれば、この同盟は薩摩次第で長州の命運が大きく動くものであった。(全17話中第14話)
時間:10:09
収録日:2018/07/18
追加日:2018/12/14
キーワード:
≪全文≫

●高杉の功山寺決起と正義派政権


 息を吹き返した急進派は、どのようなことを行ったのでしょうか。元治元年(1864年)12月15日、下関に戻っていた高杉晋作は、長府の功山寺に80人集めて決起をしました。これは地元の豪商や豪農の支援により実現したもので、山県有朋も駆けつけました。山県はこうしたところでうまく立ち回っていたのです。こうして奇兵隊を復活させました。そして、さまざまな人たちの支援を得て、たちまちのうちに大きな軍勢になりました。


●大村益次郎の軍制改革


 この戦略全体のトップに立ったのが大村益次郎です。大村益次郎は村医者の息子なので、武士ではありませんでしたが、緒方洪庵に医術や砲術を学び、非常に賢かったため、長州の兵学教授になりました。彼の一番の大仕事は、長州の軍艦を上海で密売することでした。これにより利益を得て、大量の銃器を手に入れました。

 これにより、長州の兵隊は全員が銃を持つことができました。特にこの時、手に入れたライフル銃が非常に優れていました。ライフル銃とは「装条痕銃」といって、銃の内側に弾がグルグル回るようになっており、距離と角度が断トツです。南北戦争でさえ、後半はずっとライフル銃が使われました。長州はこれを大量に持っていたのです。

 幕府と長州が戦争を行い、イギリスが長州を軍事援助した場合、長州が勝つこともあり得ます。そうなれば、対日貿易はイギリスの独壇場になるでしょう。こうした事態を憂慮したフランス、アメリカ、オランダはイギリスを牽制するため、4カ国の共同覚書を交わします。これにより、厳正中立、絶対不干渉、密貿易禁止が定められました。


●慶喜の尽力による通称条約の勅許がなされる


 他方で幕府は、多額賠償を負わされるなど、とにかく長州にやられたという意識が強く、不信感を抱いていました。そこで、第2次長州征伐を決定します。また、この時にイギリス公使がラザフォード・オールコックからハリー・パークスに代わります。パークスは第二次アヘン戦争の原因となった人物ともいえますから、相当なすご腕です。

 300万ドル賠償金支払い問題は非常に尾を引きました。幕府は6回に分けて分割支払いを要請しましたが、第1回の支払いの後、財政逼迫のため、支払い不能になります。支払い問題は、日英間の最重要外交案件となりました。

 それに対して、イギリスのジョン・ラッセル外相は訓令を出し、幕府の支払い延期を拒否したのですが、次の3つの条件の下で、減額を容認しました。1つ目は、ロンドン覚書により1868年1月に延期した兵庫開港を2年早めるというものです。2つ目は、幕府に朝廷からの通商勅許を獲得させるというものです。3つ目は、関税引き下げです。これは非常に重い条件です。将軍家茂はこの時、大坂城にいましたが、幕閣は大混乱となりました。戦争になっては困るので、何とか兵庫開港を決定します。

 ところが翌朝、慶喜が乗り込んできます。勅許なしで開港しては、攘夷派を刺激するだけだと主張したのです。これにより大坂城内は大激論となり、まだ若かった家茂は涙を流してオロオロしてしまったそうです。そこで、この時交渉をしていた部下が四カ国の公使の了解を得て、回答期限に数日間の猶予を得ることに成功します。

 その機会を捉え、慶喜はすぐに行動し、天皇に会いに行きました。朝議開催を要求し、幹部の公家が勢揃いする中、一昼夜かけ、このまま戦争になったら日本は潰れてしまうと訴えました。「日本は外国の属国になり、天皇制もなくってしまうという事態になれば、自分は自害する」と言ったのです。そうすると、天皇や公家は、戦争は避けたいと慶喜の考えに同意したため、とうとう条約勅許が下りることとなります。これにより、いわゆる「異人斬り」は終わりを告げました。


●坂本龍馬が仲介した長州と薩摩の三角貿易


 他方で、長州には現金がありませんでした。米はたくさんあるのですが、米で支払いをして外国商人がそれを堂島に売りに行く(換金)と、書類が残って足が付いてしまいます。当時、米は輸出禁止商品になっていたため、それでは問題が生じます。しかも、イギリス人は基本的に米を食べませんでした。

 そこで長州は、薩摩に米を輸出しました。強兵政策で農村が疲弊した薩摩は、米が必要だったからです。薩摩は、農村問題がひどくなっていたのです。

 長州には米が余っていたので、薩摩は長州のお米を輸入し、薩摩の名義で武器を購入して、長州に提供したらいいのではないかと考えました。これが三角貿易です。しかし、その仲介に外国商人を立てては足がつくので、担い手が必要でした。

 そこに名乗りを上げたのが坂本龍馬です。坂本はこうしたリスクをかけて商売することが大好きな人でした。仲介料、斡旋料を取って、海上輸送やブローカー業務を執り行...
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