●ボン出身のベートーヴェン、ハイドンに出会う
―― (ハイドンやモーツァルトの過ごした)端境期を経て、いよいよヨーロッパに革命の時代がやってきます。前回で、モーツァルトの亡くなったのがフランス革命の2年後という話がありましたが、皮切りはフランス革命でした。クラシック音楽の世界は、まさにベートーヴェンの時代を迎えます。
ベートーヴェンは1770年に生まれて1827年に亡くなります。彼の一番有名な逸話は、交響曲第3番『英雄』についてでしょうか。もともとはナポレオン・ボナパルトに献呈するための作品だったのを、ナポレオンが(共和国の理想を裏切って)皇帝の座に就いたため、怒って表紙をグジャグジャグジャにして(献辞を)破り捨てたと言われています。実際、そういう楽譜も残っているそうで、伝説的に語られますけど、まさにその時代を象徴する話ですね。
片山 そうですね。ベートーヴェンはボンの出身です。ここはカトリックですが、ケルンの教会の領地になっています。
―― あの大聖堂のあるところですね。
片山 あのケルンの司教が支配しているエリアで生まれました。ボンは街道筋に当たるので、それなりに先進的なエリアではありますが、同じヨーロッパでもハプスブルク帝国やフランス、イギリス、プロイセンなどと比べると、少し取り残された感があるというか…。
―― 保守的な土地柄、ということですか。
片山 そうですね。そういうところで育った人ですが、フランス革命の年には19歳になっていました。ベートーヴェン家は、ボンのそれなりの音楽家の家柄です。だから、音楽の教育は早くから受けていて、とくにいわゆる鍵盤楽器(ピアノ)の大変得意な天才青少年として売り出そうとしていた。でも、ボンだと限られた世界になってしまうと危ぶんでいたときにハイドンと出会います。
●「市民の時代」の作曲家としてスタートするベートーヴェン
片山 当時のハイドンは、ハプスブルク帝国ではもう食べられなくなった時期で、ロンドンを2回長期滞在で訪れています。その帰路、ロンドンに行ったハイドンがウィーンに帰ろうとしてボンを通ったとき、ベートーヴェンが会いに行く。「こういう曲をつくっているので、弟子にして、ウィーンの音楽界で活躍できるようにしてください」と売り込みに行ったのです。
個人の弟子がたくさんいてくれた方が生活が成り立つ時代なので、ハイドンはもうウェルカムでベート-ヴェンを弟子にします。そんなに熱心には教えなかったようですが、ともかく「ウィーンへ来てもいいぞ」ということで、ウィーン音楽界にベートーヴェンが顔を出すようになる。モーツァルトやハイドンの終わりの時代に接していた彼は、最初から「誰かに雇われることでうまくいく」ということではない時代を生きていました。
―― まさに「市民の時代」の作曲家としてスタートするということですね。
片山 ちょうどそこに、フランス革命から革命戦争、ナポレオン戦争という動乱期が重なってきます。そういうなかで「市民の時代」がやってきますが、この時代の市民の趣味は、フランス革命以前の18世紀的な王侯貴族や教会の趣味を模倣し、ステータス・シンボルを得て満足する時代とは変わっています。
大戦争に産業革命がリンクするかたちで、どんどん経済が発展しながら大きな戦争が起きる。ですから、まさにアンシャンレジーム(フランス語で「旧体制」のこと)が崩壊し、ルターが教会改革でやったような「みんなで歌う」ことが国民国家レベルで起きてくる時代になります。
●『ラ・マルセイエーズ』を歌いながら進軍したフランス軍
―― フランス革命のナポレオン軍はなぜ強かったかというと、「徴兵制だったから」といわれます。倒しても倒しても、徴兵によって補充された兵隊がいくらでも後からやってくる。そういう世界観だと言われますが、それほどの国民国家としての盛り上がりというか、社会としてのまとまりのようなものが、国家レベルで必要な時代になってくるということですね。
片山 そういう国家レベルのまとまりをつくるためには、まさにルターのコラールとほとんど同じような話で、今度はフランスのナショナリズムを高めるための革命歌を、みんなで歌おうということになる。今までの傭兵でもなければ軍事貴族でもない、昨日まで一般民衆だった人たちがみな軍隊に行きますから、行進するにはリズムを取る必要があります。そうすると、やっぱり軍隊マーチ的な、軍歌的な革命歌を歌うのがいい。それで、『ラ・マルセイエーズ』みたいなのが出てくるのです。
―― 非常に獰猛な歌詞のあの歌ですよね。
片山 はい。今のフランス国歌になる『ラ・マルセイエーズ』のようなものを、みんなで歌いながら行進して行く。みんなで歌いやすい歌を歌って熱狂するような経験を、フランスという...