●「自分がいかに生きるか」だけを考える人はエゴイズムに陥る
執行 「人間はいかに生くべきか」ということは、「いかに死すべきか」ということなのです。「死生観」ということで僕はみんなに話していますが、人間は死に方を決めなかったら、生き方はわからない。
だから、今いったように「生き方を考えている人」は全員エゴイズムになってしまう。結局、人間などというのは、「自分がどう生きるべきか」だけ考えていれば、自分の幸福だけを考えるようになる。しかし、「自分がどう死ぬべきか」をまず決めると、エゴイズムの観点で決める人はいない。
やはり人間は、国なのか、会社なのか、家族なのか、愛する人なのか、そういうもののために何かして死ぬことになる。だから、それが一つの個人の理念になる。だから、死生観、死ぬことを決めるのが重要なのです。
僕は、みんなに話しているのだけど、一番簡単な昔の死生観、庶民がいった死生観は、「家族に囲まれて畳の上で死にたい」ということ。これには教養がいらない。程度が低いという意味ではありません。死生観だからこれでいいのです。
とても重要なのは、「畳の上で家族に囲まれて死にたい」という考え方を、昔の人のように自分の人生の根源としてぶっ立てると、どんなに過酷でつらくても、家族を大切にし、女房と毎日喧嘩していようが離婚はしない。離婚しないためには、そういう死生観が必要だということなのです。僕が小さいころに、いろいろな人に聞いた人生観では、「畳の上で家族に囲まれて死にたい」というのが一番多かった。「くだらないな」と子どものころは思っていたのだけど、これはくだらなくないのです。今の人はそういう死生観すら持っていない。浮き草になってしまっています。
死生観が決まらないと、結局、自分の幸福だけを追いかける人間になる。ちょうど文学の話が出たからいうと、僕は、アンドレ ・ジードが好きなのですが、彼の作品『狭き門』の中で「人間というのは、幸福になるために生まれてきたのではない」ということを主人公のアリサが話します。これも重要な思想で、人間は自分が幸福になるために生まれてきたのではないということが、アンドレ・ジードには『田園交響楽』だとか『狭き門』だとか、いろいろな文学があるのだけど、そこに書いてある根源的なテーマなのです。僕は大好きなのですが。事実、そういう言葉をアリサという主人公が話している。ここが文学の大切なところです。文学に感動して打ち込むというのは、人間の生き方を知るということなのです。
その中から、僕はたまたま実業家になったけれども、それが医者であれ、大会社のサラリーマンであれ、自分の生き方が出てくる。だから、大会社のサラリーマンとしてどう生きるかは、文学的なものもなければ出てこない。それがやっぱり理念ですよ。個人もそうだし、会社だって同じ。会社の理念というのは、創業者の理念ですよ。キリンビールであれ、どこであれ。
●理念を腹に落として行動していく「野獣性」の重要性
執行 松下幸之助も同じです。松下幸之助の研究なくして、パナソニックというのはありません。
田村 執行 先生が、松下幸之助は「知性」と「野獣性」が両方あるのだとおっしゃっています。野獣性というのは、見えない、見えにくい。知性は見えやすいのですが、一番大事なのは、私は野獣性だと思っています。縄文以来の何か、ともいえるでしょうか。
執行 松下幸之助はすごいのです。松下幸之助が、本に書いてあるようなことを全部本気でいっているだけだったら、あんな大企業をつくれるわけがない。
田村 新商品をじっと何時間も見ていたそうです。この迫力、野獣性ですよね。だから、野獣性が失われると、いくら知性を継承しても駄目になってしまうのです。
執行 そういうことです。松下幸之助の知性というのは、やはり武士道なのです。松下幸之助が丁稚奉公(でっちぼうこう)した大阪商人が一番重要視していたのは石門 心学。石門心学というのは、武士道を商人道に落とした思想ですね。その石門心学が、松下幸之助が若かったころ、大阪で一番立派だった商人たちの共通思想なのです。僕は松下幸之助はそういうのを全部掴んだのだと思う。それあっての松下なのです。松下幸之助は確かにきれいごとも書いているけれど、それがあってのきれいごとだということです。
田村 そのきれいごとを、自分が実現するのだという、この精神ですね。自分が行動して、何がなんでも、その石門心学を実現するという精神が野獣性で、必要なのはそこなのです。松下の言葉を暗唱するのではなく、自分がそれを自分の腹に落として行動に移していく、ここが野獣性なのです。
それは理念に基づくマネジメントによってしかできない。これは先ほどおっしゃった、「自分が死ぬとき...