●日本がおかしくなったころ、第一線からいなくなった人々
田村 ただ、一部上場企業などは利益からスタートします。投資家が見ているのは数字ですから。それは数字なのですが、大事なのは、数字そのものではなく、数字の意味ですよね。たとえば、「ラガーを何ケース売る」「グリーンラベルを何ケース売る」という数字ではなく、「このグリーンラベルという商品の良さを多くの人に理解してもらって、飲んでもらって、幸せになってもらう。そのための数字なのだ」というように、数字の意味をはっきりさせて、そこへ向かわせないと組織は動かない。数字では燃えないですから。
執行 それはそうですよ。
田村 今年頑張ると、翌年もっと高い目標が来ると、みんな思っていますからね。やはり、意味なのです。そのためにも、理念を語っていけばいい。
執行 そうです。そこを、うまくできるかできないかは、人によってありますね。
田村 そうですね。しつこさが大切ですね。
執行 あとは、哲学があるかないか。僕は無謀なことばかりいうほうですが、僕がいう「無謀なこと」はだいたい通る。なぜ通るかというと、自慢ではないのですが、思想に厚みがあるのです。おそらく、言葉に「迫力」というか「力」というか、何かがあるのだと思う。田村さんも高知支店で通ったということは、何かを背負っていたのです。背負っていない人間がいっても駄目ですから。田村さんのなかで、理念が熟成していたのだと思います。おそらく、そうです。
田村 日本の企業がずっと下り坂なのはなぜか。キリンのなかにいて強く感じていたのは、戦前の旧制高校出身者の存在です。当時、私が入社したころの課長連中はみんなそうでした。彼らが、定年でいなくなったあと、会議のレベルがすごく下がった感じがするのです。議論の厚みがなくなってしまったのです。
執行 それは気がするのではなく、本当にそうなったのです。
田村 旧制高校がすべて良いかどうかはわからないのですが、少なくとも、世界にはいろいろな考え方や哲学があることを、彼らは知っていたのです。
執行 旧制 高校が何を象徴しているかというと、哲学と文学。旧制高校の1つ良かったところは、とにかく大学の専門が全部別で、医学部だろうが、理工科だろうが、経済だろうが、法科であろうが、文学だろうが、どんなものでも、ヨーロッパでいう「リベラルアーツ」、つまり、人生論、哲学と文学をやらなかったら教養人ではないという校風です。これが、旧制高校全部のセントラルドグマみたいに、ぶっ立っていた中心思想なのです。
だから、旧制高校に入った人は全員、それこそ哲学書、文学書を読まなければ馬鹿にされる、殴られる。哲学の議論だけが旧制高校の生徒の、生徒らしい部分というか、それだけが旧制高校のそれこそ「理念」なのです。旧制高校というものをつくった「理念」が、要するに「専門に入る前に、人間は必ず哲学とか文学をうんと読んで、人生を悩んで、議論しなくては駄目なのだ」という前提でつくられた学校なのです。
学校自体はヨーロッパのギムナジウムとか、フランスのリセの真似なのですが、日本は当時は明治だから、西洋哲学、西洋文学を必ず読む。そういう機関としてつくったのが旧制高校なのです。
―― それが「かっこいい」と思われているのがいいことですね。
執行 そう。みんなかっこいい。だから、旧制高校に入ったら、とにかくまずはむさぼるように哲学書を読む。そして、2年生になったら、みんなドイツ語などの原書で読む。
田村 そう。私の上司は、旧制高校2年生のときに、カントを読んでいたといっていましたからね。すごいですよね。
執行 みんなそうで、きちがいのように覚えさせられて。
田村 だから、幅があるのです。旧制高校以降の新しい戦後の人とは全然違います。
執行 いいたいのは、旧制高校はなくてもいいのです。今だって、国家が、「哲学と文学を本当にやらない人間は、教養人でもないし、大学出の資格がない」と条件を決めたら、そうなりますよ。
田村 そうですね。とにかく変化が激しいので、いろいろな考え方、価値観を持っていないと、対応できないんですよね。
日本がおかしくなったのはバブルのころですが、あのころ、旧制高校出身の人が、パカッといなくなったのです。キリンビールでも同じです。そこから会議のレベルが急激に下がりました。表面的になってしまったのです。
執行 日本の社会から文学と哲学がなくなったのです。
田村 そして、目先の数字になってしまった。
執行 そう。文学と哲学がなくなったら、そうなってしまう。
田村 それ以外にないのです。
●生きる意味の上位概念を学ぶには「文学」しかない
執行 僕も20代のころ、当時の偉い人の本を興味があって読んでいましたが...