●全ての根源にある「善のイデア」を求めて
理想の国家を実現するためには、哲人統治が唯一の、しかも可能な手段であるという提案を受けて、哲学者がどうやって政治に関わるのか、いったい哲学者がどうやってこれを実現するのかということが、もう一歩(踏み込んで)語られていきます。
「哲学者はイデアを見る者。真理を見る者である」と言われるときに、最終的にそのような哲学者となるために学ばれるべきものは「善のイデア」であるといわれます。
イデアにはおそらくいろいろな種類があるのでしょう。正義のイデア、美のイデア、勇気のイデアなどが存在するのだと思います。そういった諸々のイデアではなく、さらに究極にある「善い」ということの本質を見なくてはいけない。これが、学ぶべき最大のものといわれる「善のイデア」であり、これをめぐって3つの比喩が語られていきます。これを簡単に見ていきたいと思います。
「善い」というのは、いったいどういうことなのか。「正しい」ということでも十分にすごいものですが、ソクラテスは「『正しい』ということを本当に言い切るためには、さらに究極の『善い』ということを把握しなくてはいけない」「『善い』ということは、『正しい』とか『美しい』といったことを超えた、より根源的なものなのだ」という見通しを述べます。ソクラテスはこのことを「知っている」とは言いません。「私ももちろんよく分からないのだが、そうだと予感している」という言い方をします。
「善い」とは、例えば私の体にとって善いのは善い食事や適度の運動などというように、普通は相対的に使われます。しかし、その原理は何なのか。私の体にとって善いとはどういうことか。体が善ければいいのか。生きるとはどういうことなのか。こういうことを突き詰めていくときに、「善い」とは何かということを判断する。これを見極めることが、哲人統治する哲学者の最終目標であり、かつその前提になるわけです。
そんなに簡単に「『善い』とは、こういうことです。はい、勉強してください」というわけにはいかない。そこでソクラテスは、「自分は予感だけしているけれども、あえて比喩のような形で、『善のイデア』とはこういうものではないか、ということは提示できる」と言います。
●善のイデアに向かうための3つの比喩
これは何か不思議ですね。知っていないのだけれども、こうではないかと比喩で語る。これはなかなか面白い語りですが、そこで3つの比喩が出てきます。前回は3つの大波でしたが、ここでは3つの比喩「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」が出てくるのです。
「太陽」「線分」「洞窟」の3つが順番に出てきて、「善のイデア」とはこういうものだという説明がなされます。本当は全部きちんと1つずつ紹介しなくてはならないところで申し訳ないのですが、「洞窟の比喩」という一番最後のものを中心にお話しします。これは前の2つがちゃんと分かっていないと全部は分からないという構造ではあるのですが、有名なところであると同時にやはり一番印象深いところなので、こちらをご紹介します。
「太陽の比喩」は、私たちが生きている感覚の世界は、なんだかんだいっても太陽が支えてくれている。太陽の光によって私たちはものを見ることができるし、太陽の光によってものが育っていく。つまり、私たちが生活し、感覚している世界の原因として、その一番の究極原因として太陽があると考えられる。
その場合、私たちが「知る」、知性的な目に見えない世界にも、同じような構造があるのではないか。つまり、「知る」ということを可能にする光のようなものがあるのだろう、と。分かりますか。
ここに今、紙がありますが、真っ暗闇では見えず、光が当たるから見えます。今は蛍光灯の光ですが、基本的には太陽の光が当たることによって目はものを見ることができるようになります。
同じように、人間が持っている知性がイデアというものを知ることができるためには、もう1つ光のようなものが必要になる。「善のイデア」は、そういう根本的な役割を果たす。これがないと全ての認識が成り立たず、真理が成立しない、そのような根拠です。それが真理そのものというわけではない。真理は、輝き出して、光り輝いているさまをそう呼んでいるわけで、真理を可能にする根拠が「善のイデア」である。そういう話です。
「線分の比喩」によって、これをもう少し精緻に語った後で、「洞窟の比喩」という非常にビジュアル的なものを持ってきます。聞いた方も多いと思いますが、次のような感じです。
人間の教育と無教育に関する私たちの本性を比喩として表そうではないか。洞窟というのは、例えばこんな感じで、地中の奥深くに入っていくので、奥のほうには光が届かないわけです。鍾乳洞の...