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DATE/ 2024.06.07

日本人のルーツは?~人類の起源と縄文人・弥生人

研究の進展で見えてきた「日本人のルーツ」

「耳あかが湿っている人は縄文人系、乾いている人は弥生人系」……などという話を聞いたことがある方も多いことでしょう。この日本の地に、人類はいかにやってきたのか。そして、どのように広がっていって「日本人」になったのか。

やはり、自分たちのルーツがどこにあるのかは、大いにロマンをかきたててくれますし、多くの人にとっての関心事であることはまちがいないでしょう。

実は、遺伝子研究の進展によって、「日本人のルーツ」がだいぶ見えてくるようになりました。また日本人がやってきたルートについての研究や、縄文時代、弥生時代の研究もどんどん進んでいます。

テンミニッツTVでは、その研究の第一人者である
斎藤成也先生(国立遺伝学研究所名誉教授)
海部陽介先生(東京大学総合研究博物館教授)の講義を配信しています。

それぞれのお話をひもときながら、現在わかっていることを深掘りしていきましょう。

人類の起源と3回あった「出アフリカ」

現代のわれわれ人類の起源はどこに求められるのか。よく知られているように、人類の起源はアフリカだと考えられています。

実は、『種の起源』などを著わし進化論のさきがけとなったチャールズ・ダーウィンも、全人類の共通の起源はアフリカにあると主張していました。全人類の祖先は共通だとする単一起源説です。

一方、ジャワ原人や北京原人、ネアンデルタール人やデニソワ人など、現生人類(ホモ・サピエンス)に先行する旧人たちが世界の各地で進化していったとする「多地域進化説」もありました。しかし、遺伝子研究などの結果、現在では多くの研究者が「アフリカ単一起源説」を支持しています。

斎藤成也先生は、こうおっしゃいます。

《もともとわれわれの祖先は、10万年前か、あるいは20万年前か、まだはっきりしていませんが、そのほど古い時代にはアフリカにしかいませんでした。それがだんだんとアフリカを出ていって、やがて日本列島までたどり着き、最終的にはわれわれの祖先となった、ということがほぼ確定されています》(斎藤成也《核DNAからさぐる日本のルーツ(1)人類の起源と広がり》テンミニッツTV)

つまり、現在の全世界の人類の祖先は共通で、アフリカから世界中に広がっていったのです。

人類がアフリカから出て行った過程は、キリスト教の『旧約聖書』の「出エジプト」になぞらえて「出アフリカ」と呼ばれます。実はわれわれの祖先が「出アフリカ」を行なうずっと前に2回の「出アフリカ」があったそう。あわせて3回の「出アフリカ」があったことになります。

そのうちの2回目、現生人類の「出アフリカ」にずいぶん先んじて、だいたい40万年前から50万年前にアフリカから出て行ったのが、ネアンデルタール人やデニソワ人などの共通の祖先になった旧人たちでした。

いちばん古い「出アフリカ」は、原人たち(ホモ・エレクトス)、100万年以上前のことです。彼らが北京原人やジャワ原人、ハイデルベルク人、ドマニシ原人などになったと斎藤成也先生はおっしゃいます。

謎のデニソワ人とは? ネアンデルタール人、デニソワ人と現生人類の交配は?

さて2回目に「出アフリカ」をした旧人ですが、ネアンデルタール人はよく知られていても、デニソワ人を知っている人はやや少なくなるかもしれません。

デニソワ人は2008年に西シベリアのアルタイ山脈の北方にあるデニソワ洞窟で発見されました。指の骨や歯の骨など、まだ発見された化石の遺骨は少ないのですが、遺伝子研究の結果、ネアンデルタール人とは近縁の旧人だということがわかったのです。旧石器時代にアジア全域に分布していた旧人だと考えられています。

ちなみに、ネアンデルタール人は、ドイツのネアンデル谷(谷はドイツ語で「タール」)で発見されたので、その名で呼ばれています。約40万年前からヨーロッパや西アジア一帯で暮らしていましたが、約4万年前に絶滅しました。かつては、ネアンデルタール人が現生人類に進化したとも考えられていましたが、最近では、別系統の人類であるとする見方が主流になっています。

また、少し前まで、ネアンデルタール人は現生人類(ホモ・サピエンス)とは混血できなかったと考えられていました。あくまで、別系統の人類で、絶滅してしまった種だとされていたのです。しかし、その見方も覆されています。

遺伝子の研究の結果、現生人類の遺伝子のなかに、ネアンデルタール人やデニソワ人に由来するものが見つかったのです。つまり、現生人類はネアンデルタール人やデニソワ人と交配していたのです。ちなみに、ネアンデルタール人とデニソワ人が交配していたこともわかっています。

斎藤成也先生は、こうおっしゃいます。

《ネアンデルタール人の遺跡は、従来ヨーロッパから中近東にかけてでした。最近はシベリアのデニソワ洞窟からも発見されているように、基本的には西ユーラシアに偏っています。ところが、現代の人間から見ると、むしろわれわれ東ユーラシアの人間の方が、ネアンデルタール人のゲノムを少し多めにもらっています。これは現在でも謎の1つで、なぜそういうことが起こったのかは、これからも研究が必要となります》

《デニソワ人もまだ謎の人々なのですが、特にわれわれの最近の研究によりますと、現在フィリピンに住んでいる採集狩猟民、英語では「ハンターギャザラー(hunter-gatherer)」といい、一般には昔から「ネグリト」というのですが、彼らにデニソワ人のDNAが結構伝わっています。一番伝わっているのはもっと南のパプアニューギニア、オーストラリア原住民であることが分かってきています。
 そのデニソワ人についても、まだ論争中ですが、ひょっとすると、もっと昔にいたジャワ原人(今の東南アジアの国でいいますとインドネシアなどの地域)とデニソワ人の祖先が、遺伝的な交流をしたのではないか、ということも今いわれています。デニソワ人もせいぜい5万年ぐらい前の新しい人々ですから、現代に残る彼らのゲノムの中に100万年以上前にアフリカからやってきた原人(エレクタス)のゲノムが伝わっているかもしれないということで、骨だけではなくゲノムからも、そうした古い人たちのことが分かってくるようになるということが、もう数年の間にはどんどん研究が進むと、われわれは期待しています》(斎藤成也《核DNAからさぐる日本のルーツ(2)原人・旧人・新人》テンミニッツTV)

 現生人類が、ネアンデルタール人やデニソワ人と交配したことの遺伝子的な影響も、いま、さまざまなかたちで論じられています。そのなかには、病気の罹りにくさの違いなどについてのものもあります。人類に多様性や強靭性をもたらした一仮説として、まことに興味深いもの。さらなる研究が待たれます。

「出アフリカ」をした人類は、いつ日本列島に入ったのか?

さて、「出アフリカ」でアフリカを出て世界中に広がった人類は、いつごろ日本列島にたどり着いたのでしょうか。

日本列島で見つかった遺跡などから、日本では3万8000年前には人類がいたことがわかっています。そのことについて、海部陽介先生は次のようにおっしゃいます。

《日本列島にホモサピエンスの集団がやってきたのが3万8000年くらい前だと考えられます。当時は(氷期だったので)、今よりも80メートルくらい海面が下がっているので、北海道は大陸までつながる半島になっていました。ですから、大陸から北海道までは歩いて来られるのです。その先には津軽海峡の海があって、本州とはつながっていないですね。
 朝鮮半島から来ると、対馬海峡は開けている、つまり海があってこれを越えないといけない。見える程度の距離ではありますけれども、九州まで渡るのに海を越える。
 それから、台湾が実は大陸の一部になっているので、そこまでは歩いて来られます。その先には沖縄の島々の間に海がありますので、海を越えないといけないということになります》(海部陽介《最初の日本列島人~3万年前の航海(1)日本への移住 3つのルート》テンミニッツTV)

では、3万8000年より前に、ネアンデルタール人やデニソワ人などのような「旧人」や、北京原人、ジャワ原人のような「原人」は日本列島に来ていたのでしょうか。海部陽介先生は、こうおっしゃいます。

《今のところ、3万8000年より前の遺跡があったのか、その時期に人がいたのかというのは、研究者の間で見解が分かれている話になっています。だから、いたかもしれない。でも、いたとしてもこれは人口的には少数だったはずです。3万8000年前以降には遺跡の数がぐっと増えるので、ここで大きな変化があったことだけは間違いないだろうと思います》(海部陽介《最初の日本列島人~3万年前の航海(1)日本への移住 3つのルート》テンミニッツTV)

では、なぜ3万8000年前に、日本列島で遺跡が急に増えるのでしょうか。海部陽介先生は、こうおっしゃいます。

《それは実は大きな問題で、まだ誰も答えられない問題です。アジアの中では3万8000年って比較的遅いのです。オーストラリアにはもっと早く渡っていますから。中国にももうちょっと前に人がいてもいいんですが、それがどうして3万8000年なのかというのは、今すぐには答えが出ない。これからの研究すべき課題です》(海部陽介《最初の日本列島人~3万年前の航海(1)日本への移住 3つのルート》テンミニッツTV)

ちなみに、オーストラリアに人類が到達したのが約6万~5万年前、アメリカ大陸(アラスカ)に到達したのが約2万年前だとされます。もちろん、たとえばアメリカ大陸はもっと古くに到達していたのではないかとする説もありますが、それらとの比較で、日本に人類が到達したとされている「3万8000年前」を考えてみるのも、まことに興味深いことです。

日本人が日本列島に到達したルートは?

では、日本人はどのようなルートで日本にやってきたのか。上述の海部先生のお話のように、約3万8000年前は氷期だったので、海面が現在より80メートルほど下がっていました。

斎藤成也先生は、渡来ルートとして次の6つを挙げます。

(1) 短距離の海峡を挟んで、ほとんど陸続きだった朝鮮半島から。
(2) 巨大な半島になっていた樺太から北海道を通って。
(3) カムチャツカ半島から千島列島を通って。
(4) 大陸と地続きだった台湾から、沖縄を通って九州へ。
(5) 上海など揚子江の河口域から、直接九州へ。
(6) 沿海州(現在のウラジオストクなど)から日本海を渡って。

さらに、ポリネシア人が航海であちこちに到達していたのなら、彼らが日本列島に到達していた可能性もあると、斎藤先生はおっしゃいます。

このうち、台湾から沖縄へのルートを実証研究されたのが、海部陽介先生です。

琉球列島のほぼ全域に、3万年前になると人類が突然現われる。しかし、九州から来れるかというと、黒潮という世界最大の海流があるので非常に難しい。だとすると、台湾から北上してきたのではないか。

その仮説に基づき、当時の船の技術を想定しつつ、海部先生は台湾から与那国島に渡る実験を行なったのです。

最初は草を束にして船にした草束舟をつくりますが、浮力はよいものの、スピードが出ないので、海流を越えられませんでした。次に竹を筏(いかだ)のように組む竹筏舟。しかし、これもスピードが出ずに失敗してしまいます。

そこで、旧石器人の石器(刃部磨製石斧)を用いて「丸木舟」をつくれるかを実証実験。それを確かめたうえで、実際に丸木舟をつくり、3万年前の技術だけを使った航海で、台湾から与那国島への到達に成功しました(2019年)。海部先生は、この実験について、こう語ります。

《(丸木舟で)もう渡っていることは分かっているんです。丸木舟をつくるために、どういう技術が最低限必要かということと、それがいかに難しいかということを知りたかったのです。僕ら研究者は地図の上に矢印を書いて終わってしまうことがあるのですけれど、その矢印の持っている「意味」があるわけです。その矢印は、簡単な矢印では絶対にないんですね。それを知りたかった。そのための実験だったのです》(海部陽介《最初の日本列島人~3万年前の航海(3)祖先たちの偉大な能力》テンミニッツTV)

日本列島の人びとは、中国大陸の人びとと明瞭に異なる

では、その後、日本人はいかに渡来し、いかに広がっていったのでしょうか。

1990年代前後には、「二重構造モデル」が提唱されました。縄文時代には縄文人たちの社会が成立していたが、弥生時代に稲作移民が渡来し、混血が進んで日本人が形成されたという説です。さらに最近では、それに加えて古墳時代に東アジアから渡ってきた集団の影響を加味した「三重構造モデル」も唱えられています。

遺伝子の核ゲノムを用いた研究から見ると、日本人は近隣諸国の人びととどのような違いがあるのでしょうか。詳細は、ぜひ、テンミニッツTVの齋藤成也先生の講義(《核DNAからさぐる日本のルーツ》第4話以降)をご参照いただくとして、ここではわかりやすく近隣諸国との差を示してくださった図を引用しましょう(同講義第7話より「主成分分析法による東ユーラシア人の遺伝的関係」)。

主成分分析法による東ユーラシア人の遺伝的関係

この図について、斎藤成也先生は次のように説明します。

《この結果を最初に見た時は驚きました。これは、いかにわれわれヤポネシア人(※与那国島から樺太や千島列島なども加えた日本列島の地理的概念)が、他の大陸の人々と違うのか、明瞭に表している図だからです。東アジアから東南アジアの大部分の人たちは、楕円の中に入ります。
ところが少しずれて、右に朝鮮半島の人々(韓国人)、ヤマト人、オキナワ人、そしてアイヌ人ということで、全体として線のように延びています。この向こうには当然、縄文人がいます。現代人を調べた結果ですが、今までのいろいろな人類学の研究成果から、縄文人との混血の程度として(アイヌ人は)高い、(オキナワ人は)中ぐらい、(ヤマト人は)低い、(韓国人は)ほとんどゼロ、(その他の東アジア人は)全くゼロ、ということを表していると間違いなく解釈できます》(斎藤成也《核DNAからさぐる日本のルーツ(7)縄文人と弥生人の混血》テンミニッツTV)

遺伝子的に見ると、日本列島内で見れば、アイヌの人は、ヤマト人(本州人)とオキナワ人とずいぶん離れている。ヤマト人やオキナワ人は、アイヌ人と比べると同じ日本列島人でも、大陸の人とよく似ている。しかし、オキナワ人とアイヌ人は、ヤマト人とアイヌ人よりも近しい関係にある。

しかし、韓国や中国大陸の人びとと比べると、やはり日本列島の人びとは明瞭に異なっている。そのことがはっきりと見えてくるのです。

縄文人と弥生人~現代人に受け継がれている「割合」は?

さらに、斎藤成也先生は、福島県にある縄文時代末期の三貫地貝塚から見つかった人の歯からDNAを抽出しました。3000年ほど経っている歯なので、貝塚のなかで埋もれていたときに周りにあった菌やバクテリアなどの影響も受けてしまっていますが、それでも、1億1500万塩基は人間のものに違いないというものが見つかりました(人間のヒトゲノムは32億塩基)。

そこから見えてきたものは何か。斎藤先生は次の図で説明されます(同講義第8話より「主成分分析法による三貫地縄文人と他の人類集団との遺伝的近縁関係」)。

主成分分析法による三貫地縄文人と他の人類集団との遺伝的近縁関係

斎藤先生は、こうおっしゃいます。

《まず世界全体で見ると、アフリカの人々、つまり出アフリカをしないで残った人と、出アフリカをして東と西に分かれた人、つまり東ユーラシア人、西ユーラシア人の3つの集団で大きく違っているということは、昔から知られています。
 では縄文人はどこにくるか。すなわち、縄文人がまさに住んでいた、われわれヤポネシア(日本列島)が存在する東ユーラシアの現代の人々に近いのです。けれども、結構離れています。これが面白いところです》

しかも縄文人は、東ユーラシア人に近くにあるものの、アフリカ人と西ユーラシア人により近い内側に位置しています。これは「縄文人はより古いものを残している」ように見えるとのこと。

また、東ユーラシア人と縄文人だけを比較すると、大陸の東ユーラシア人と縄文人は離れたところに位置し、ヤマト人も東ユーラシア人からふっと浮かび上がります(縄文人により近いところに位置します)。これは、ヤマト人が土着の縄文人のDNAを残しつつ、大陸からの人々の混血を受け入れた、混血であるということを明らかに示しています。

そして縄文人とヤマト人、オキナワ人、アイヌ人を比べてみると、実は福島県の遺跡から出土した縄文人のゲノムデータは、アイヌ人とも少し離れています。

これは、アイヌの人たちが、より北方の人びと(オホーツク文化人)からの遺伝的な影響を受けているのに対して、福島県の縄文人はその影響を受けていなかったからだと考えられます。

ここから見えてきたのは、次のことです。

・縄文人は、東ユーラシア人からとても古い時期(2万年前~4万年前)に分かれた人々であったこと。

・そこに弥生人が大陸から渡来してきて、水田稲作文化を広めていったこと。

現代日本人への縄文人の混血割合は12パーセントだが……

さらに縄文人から現代日本人にどのくらいのDNAが伝わってくるかを推定したところ、「12パーセント」という数値がはじき出されたといいます。

しかしもちろん、この数字は日本国内の各地域によっても異なります。沖縄や東北は「縄文の祖先比率」がより高く、関西地方が最も低くて最も大陸に近い結果になるのです。

東北と沖縄は距離が離れているのに、共通点がある。しかも、不思議なことに、出雲地方もまた東北地方と似ているとのこと。

このことが、縄文時代の日本に、弥生時代以降、幾度かにわたって渡来人がやってきた「二重構造モデル」「三重構造モデル」の存在を示しているといいます。つまり、どの地域に渡来人が多く入ったかも見えてくるのです。

東ユーラシア人から太古に枝分かれした要素を残しつつ、そこに新たな渡来文化を加味してできあがってきた日本。その過程を見るとき、大陸とは異なる日本文明の姿についてのイメージも浮かんできます。

古くて、新しくて、多様性に満ちた日本。それはまさに、現代日本の姿とも深く共通するものといえるかもしれません。


■動画でじっくり学びたい方はこちら>>>
核DNAからさぐる日本のルーツ(全11話)
齋藤成也先生(国立遺伝学研究所名誉教授)
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2553

最初の日本列島人~3万年前の航海(全3話)
海部陽介先生(東京大学総合研究博物館教授)
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2958

■斎藤成也先生について
1957年、福井県生まれ。1979年、年東京大学理学部生物学科卒業。1986年、テキサス大学ヒューストン校生物医科学大学院修了(Ph.D.)。東京大学理学部生物学科助手、国立遺伝学研究所進化遺伝研究部門助教授、総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻助教授(兼任)、国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門教授・総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻教授(兼任)、東京大学大学院理学系研究科生物学専攻教授(兼任)、琉球大学医学部教授(クロスアポイント)を経て、2022年、国立遺伝学研究所名誉教授。専門:ゲノム進化学、人類集団遺伝学。さまざまな生物のゲノムを比較し、人類の進化の謎を探る一方、縄文人など古代DNA解析を進めている。

主な著書に、
『ゲノム進化学』(共立出版)
『核DNA解析でたどる 日本人の源流』(河出書房新社)
『日本列島人の歴史』(岩波ジュニア新書)
『歴誌主義宣言』(ウェッジ)
『ダーウィン入門』(ちくま新書)
『DNAから見た日本人』(ちくま新書)
などがある。

■海部陽介先生について
1969年、東京都生まれ。東京大学理学部卒業。東京大学大学院理学系研究科博士課程中退。東京大学総合研究博物館教授。人類進化学者。理学博士。約200万年におよぶアジアの人類史を研究。元職の国立科学博物館にてクラウドファンディングを成功させ「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」を実施。日本学術振興会賞、海洋立国推進功労者表彰などを受賞。

主な著書に、
『人間らしさとは何か』(河出新書)
『サピエンス日本上陸』(講談社)
『日本人はどこから来たのか』(文藝春秋)
『人類がたどってきた道』(NHKブックス)など。
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