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兵と殿様が対立する鹿児島、奇兵隊解散が課題の山口

明治維新から学ぶもの~改革への道(10)尾大の弊、政府親兵の創設

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授
情報・テキスト
奇兵隊
版籍奉還後、薩長は戊辰戦争からの凱旋兵士の扱いに悩んでいた。中央政府の改革にとっても、両藩は最大の障害だったが、紆余曲折の末、「親兵」の制度化により数千の兵士が有力藩から政府に提供される。中央政権も富国強兵も恐る恐るのスタートだった。(2018年11月13日開催島田塾講演「明治維新とは:新たな史観のこころみ」<後編>より、全22話中第10話)
時間:07:03
収録日:2018/11/13
追加日:2019/04/27
キーワード:
≪全文≫

●兵と殿様が対立する鹿児島、奇兵隊解散が課題の山口


 「尾大の弊」と政府親兵の創設の項目に入ります。「尾大の弊」は、大きくなりすぎた尻尾が頭を振り回してしまうような事態を指します。版籍奉還後、真正郡県制を目指す政府にとって重大な障害は、鹿児島・山口などの有力県が割拠する姿勢でいることでした。

 鹿児島藩(薩摩)では藩主の父である島津久光がなお力を持っていて、改革はけしからんと発言し、戊辰戦争から凱旋して帰ってくる兵士たちとも対立しました。中央政府はまだ力が弱くて手の出しようがなく、非常に大きな障害になります。

 明治2(1869)年の藩制改革で干されていた西郷隆盛を、藩主は翌年「参政」という参与のような官職に任用します。西郷は士族の味方ですから、「兵士扶助」を行います。政府の急激な集権策や官員の腐敗には批判的だけれど、兵士には優しいのです。ですから、久光らの守旧派と凱旋兵士の調和を図って兵士の扶助を優先する役を務めました。

 薩摩は、もともと1万2000もの軍隊を持っていますから、昔から「自分たちだけでできる」という発想があり、中央政府と反りが合いません。

 山口藩(長州)には木戸孝允、伊藤博文、井上馨といった開明派のリーダーがいるわけですが、長州の毛利氏は開明派に同調的で、久光のように頑固な「上」がいないため、仕事はやりやすかった。ただ、高杉晋作らのつくった奇兵隊のように一般庶民を登用することが、非常に重荷になります。

 そこで、諸隊を解散して編成替えしようとするのですが、いざ具体化されると除隊兵と脱走兵が大暴動を起こし、これを殲滅するために多大なエネルギーを消耗します。木戸はこの様子を見て、「急進は危険だ。じっくり構えなければいけない」と学んだようです。


●鹿児島・山口の兵力問題と「徴兵規制」


 新政府の改革にとって、最大の障害になるのは鹿児島(薩摩)と山口(長州)でした。鹿児島の場合は、近衛兵を出せと言われていたのに、途中で気が変わったのか取り止めたりしたのでそれが「謀叛」ともいわれています。

 従来から、木戸は鹿児島・山口の提携には懐疑的でした。鹿児島は強大な士族軍団を持っていて、野望もあるし、反政府の動きもある。一緒に改革しようとしても鹿児島に出し抜かれてしまうのではないかという疑いが拭い切れなかったのです。大久保は「そんなことはない。われわれは藩を解体して、誠心誠意新しい国家のために尽くす」と言いますが、周囲は疑いの目で見ていました。

 ところが、鹿児島に帰っていた西郷従道から、鹿児島が急に変化したという手紙が伝わってきます。鹿児島では、大久保らの政府案に期待が持てるなら、その言に従ってもいいし、膨大な凱旋兵士による経済的負担が大きいため、中央の扶助があるなら差し出してもいいという機運がみなぎってきたようでした。

 ただし、兵については、鹿児島兵はイギリスの訓練を受けた英軍式で、政府は幕府を引き継いだ仏軍式という問題がありました。水に油の無理難題といえます。それでも背に腹は変えられず、政府が鹿児島兵を引き受けることになります。

 一方、兵部省では明治3(1870)年に「徴兵規制」を布告しています。徴兵規則は全市民を軍隊にするためのものですが、天皇を守る近衛兵のような一部については、薩長のような有力藩から出させてもいいと考えていました。ですから、ここへ来て鹿児島や山口などの諸兵が中央軍扱いになることは、兵部省の新しい兵制とまるで矛盾してしまうわけです。

 一般人から兵隊を徴兵して一国の軍隊をつくるのは西洋流の考えで、大村益次郎が長年主張していたことです。大村の暗殺後は、山県有朋がそれを引き継ぎました。山県は予算のなさに苦しんでいた折なので、鹿児島・山口その他の有力藩がまとまった兵隊を出してくれるなら、妥協しようと決定しました。


●「親兵」の制度化による「尾」の吸収と「大藩同心意見書」


 その後は大変な苦労があり、結局は大久保が西郷を説得して、「親兵」を制度化します。この後も紆余曲折はありましたが、主要藩から合計8000名の親兵が東京に来ることになりました。

 ただ、これにより、全国に多くの暴動が発生します。農民一揆も多かったため、それを鎮める効果もあるだろうと実施したのですが、九州の日田県で明治3年11月から大規模な一揆が起こり、暴動になります。翌明治4(1871)年1月8日には、反政府分子により広沢真臣が暗殺されます。

 広沢は参議東京府御用掛として、東京府の取り締まりを担当していました。この人が殺されたわけですから、政府は非常に事態を重く見、大弾圧に入ります。ちょうどそこへ親兵の動きが入ってくるために、彼らを使おうということになりました。

 明治4年には政府強化のための諸改革に着手しますが、大混...
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