●プラトン「対話篇」における「脱線」の位置付け
「正義とは何か」という規定が一応終わった後、「今度は不正の話に行こうではないか」とソクラテスが言い始めた途端に、ドラマ的に少し面白い展開になります。アデイマントス(兄)とポレマルコスの二人が出てきて、「先ほどの議論では足りないところがあります。ソクラテス、ちゃんとやってください」と、割って入るのです。
前回われわれはちょうど第4巻の終わったところだったので、ここから現代の巻分けでいくと第5~7巻の3つの巻に入るのですが、ここで1つのまとまった議論が始まります。私たちは「中心巻」と呼んでいますが、この真ん中の3つの巻は脱線部なのです。
なぜなら、1巻から始まった「正義は、いいものですか」「正義とは何ですか」という議論をした流れで、「不正とは何ですか」という議論に入っていく前の真ん中の部分では、正義の話はそれほど中心には出てきません。
つまり、今の話をしていく中で出てきた疑問に対して、少々余分なことが始まるのです。これを「脱線」と呼びますが、プラトンの「対話篇」の中では、あちらこちらで脱線が起こります。つまり、いろいろな対話で起こるのですが、それがいつも重要なところ、特に真ん中で起こります。
これはどういうことかというと、ちゃんとした議論をやっていて、「どうしても必要なことがあるから、もうちょっと深入りしよう」というときに出てきます。ここで何が議論されるかというと、だいたい「哲学とは何か」という問題が議論されていく。つまり、それが挟まらないと全体の議論がうまくまとまらないということで、「冠」のような感じです。そういう議論の箇所を、何回かに分けて見ていきましょう。
●理想的な国家と「コイノーニアー」の問題
アデイマントスとポレマルコスが「(議論が)必要だ」と言ったのは、ソクラテスが先ほど理想的な国家を営むときには「妻子共有」、つまり奥さんと子どもはみんなの共同であると言ったことについてです。それについてソクラテスは少し触れただけでしたが、(彼らは)「それは重要な問題ではないですか。ちゃんと言ってください」と言うわけです。
ソクラテスは渋々、「いや、それは避けて通ろうと思っていたのだが、まあ言うとなったら全部やり直しだね」と。それでもやってくれと言われるので、言い始めるのです。なぜ「やり直し」のようなことを言うのかというと、今まで議論してきた理想的なポリス、理想的な社会というものは実現可能なのか、そして実現可能だとしてそれは最善なのかという議論を、もう一度やり直さなくてはいけないからです。「今まで議論してきたことは、実はまだまだ不十分だった。それを君たちは今、要求しているのだね」と言うのです。
そこでキーワードになるのが「Koinōnia(コイノーニアー)」という単語です。「コイノーニアー」というのは「共同・共生」を指す言葉で、「一緒にある」ということですから「公共」と呼んでも構わない。これがキーワードです。
社会というのは共同性であり、人と人とが一緒に生きていくことである。これは何なのかということを考える上で、スキップしてきた問題を考えなくてはいけない。そしてソクラテスは、「コイノーニアーをめぐって3つの大波が来る」と言います。第1波、第2波、第3波と来るのかもしれないが、それを越えなくてはいけないのだ、と最初に言って、1つずつ議論していくことになります。
●コイノーニアーの第1波「男女同業」
ソクラテスがこれから議論する第1波はどういうものかというと、「男女同業」です。男性と女性は同じ仕事をする。「男女平等」といってもいいかもしれませんが、理想的なポリスをつくったり考えたりする上では、男女同業による共生を考えなくてはいけない。
共生の1つ目のポイントは、女性も男性と同じような仕事、教育が必要だということです。これは、当時のギリシアから見ると驚くべき主張です。社会の中で政治や公共の場所で活躍するのは男性で、女性は家庭の中で家事あるいは家庭内の仕事をしていると、きっぱり完全に分かれていたのが当時の社会でした。その社会において、男性と女性がまったく同じ仕事をすべきだ、つまり女性も政治参加すべきだということを言ったわけです。
現代の学者たちは、これを「フェミニズムの原型」であると言って、かなり肯定的に評価する傾向があります。現代のフェミニズムと同じというわけではありませんが、プラトンにいかに先見性があったか、もっといえば偏見にとらわれない議論をしていたかということの1つの目安にはなります。
当時の社会では、男性と女性が同じ教育を受け、同じ仕事をするのは、見た目からしてもかなりおかしいことだ、むしろ笑ってしまうようなことだということです。なぜかという...