●「もうちょっと描こう」と思っても手が動かなくなってしまう
執行 でも「勢い」「勢い」と言っても、これは「勢い」では描けないです。
コシノ 言葉は「勢い」なのですが、ためる時間のほうが長いですね。
執行 やはりすごい「重力」。「重力」という言葉は使っていますが、コシノさん自身から見ると、この「重い感じで表現されるもの」というのは、描く人間としては何を感じているのですか?
コシノ 私は、やはり眼はすごく正しいので、自分に疑問を持つのは怖いですね。眼はやはり正しいですよ。だから手が動かなくなってしまうんです。
執行 描いていて?
コシノ もうちょっと描こうかなと思っても、「描いちゃダメ」みたいな。それを描くと失敗というか、手が動かなくなってしまう。だから描き過ぎるというのは……。
執行 ダメですよね。
コシノ バランスというか、手がそこから動かない。何か、ある意味で本能でしょうね。「絶対にこれだ」と思ったら、もうそれ以上描くと失敗します。やり過ぎはダメです。ちょっと空間を残す。残しかたが感性だと思います。
執行 これはコシノさんだけではないのですが、私の知る優れた芸術家は、みんな「足りない作品」が素晴らしいのです。「足りない」ということは、本人にとっては未完です。
コシノ そうなんです。だけどそこを我慢しなきゃダメなんです。
執行 戸嶋(靖昌)もそうだったし、山口長男もそういう発言をしています。
コシノ それ以上やると、やはりちょっとやり過ぎになる。本能的な「ここでやめよう」という決断が大切だと思います。
執行 だから美術論の言葉としては、「未完で終わる」ということです。
コシノ そうですね、分かります。その未完の空間が、見る人に共通するのです。
執行 本当に、ダメな作品はやり過ぎなんです。
コシノ そうなんです。「これ、やめればいいのに」と。本人は分かっていなくても、分かりますよね。
執行 でも、ダメな人というと失礼ですが、ダメな画家としゃべると、みんな自分が描くものは細部に至るまで、ものすごくこだわっているのです。だから、どうしてもやり過ぎになってしまう。
コシノ 一番いいのは、ちょっと一歩引いて、他人事(ひとごと)で見るのです。
執行 そういう描き方をしている?
コシノ はい。そればかり考えていると、だんだん増えてくるというか、描きたくなるから、一歩引きますね。
執行 引いて見る。客観視するということでしょうか。
コシノ そうです。自分じゃない他人事。一歩引いて見るほうが見えやすいですね。
執行 今、言われたことは私が本に書いている「体当たりの理論」と一緒です。体当たりするということは「当たって砕けろ」ではないのです。「体当たりする」とは、前後左右の「塩梅(あんばい)」を全部計算しているんです。計算しない体当たりというものはないんです。だから私はコシノさんの描き方自体、体当たりだと思っています。
コシノ そうですね。
●余白こそ訴える大きな力、それを埋めてしまえば息ができない
執行 勢いで描いて、あとは未練がないとおっしゃいましたが、多分、前もって体当たりしているのだと思う。体当たりをするときは、言葉が間違っているかもしれませんが、ある種、自分の中に計算がある。昔の言葉で言うと、塩梅があるんです。
コシノ そして、やってみなければ始まらない。「エイ」ってやらないと本当は始まらないんです。考えてばかりだといつまで経っても始まらないので、そこはちょっと思い切らないとダメですが、だけど、やり過ぎると重いですね。
執行 その未完と、あと……。
コシノ バランス。
執行 コシノさん自体が未完だと思う作品が、非常に魅力があるんです。
コシノ うん、ちょっと足りないぐらいが本当に……。
執行 いいですよね。
コシノ いいです。
執行 私も見ていて、多分そうだと思います。
コシノ もうちょっとやりたいけど、我慢してやめる、みたいな。
執行 やはり体当たり理論と一緒です。
―― 今、「我慢」という言葉がすごく印象深いと思いました。描き手として、描きたい気持ちをどう我慢するか。
コシノ 頭の中では思っても、手が動かなくなったりする。手が行かない、みたいな。なにか、手と頭がバラバラで。それが本能だと思うんです。だから「感性」って見えないんですけど、そのときのタイミングやバランスを間違えたら、もうグジャグジャになってしまうから。
そして自分が好きなものは何かというと、やはり余白の美です。その余白をどのようにデザインするか。
余白は、何もないみたいですが、それこそが訴える一番大きな力でしょう?それを埋めてしまえば、息ができないですね。
執行 コシノ作品は、非常に...