●5年か10年おきに、どこかの国が経済破綻の危機に陥っている
日本が終戦直後に経験したことは、おそらく世界史でも最悪に近い例ですが、しかしこうしたこと自体は、それほど珍しくはありません。多くの国がこういう経験をしています。
例えば、最近の事例からさかのぼれば、アルゼンチンが2001年、ロシアが98年、南アフリカが85年、フィリピンが83年、ブラジルが83年、メキシコが82年と、要するに、5年か10年おきに、どこかの国が経済破綻の危機に陥っているのです。つまり、日本の終戦後だけが特別で、もうあんなことは起きないとは、必ずしも言い切れないのです。よほど注意しておくべきです。
●アルゼンチンは、2001年から数年にかけて経済破綻に陥った
今回は、比較的新しい3つの例、アルゼンチンとブラジルとロシアについて見てみましょう。
アルゼンチンは、2001年から数年にかけて経済破綻に陥りました。後で見るように、1998年にロシアがデフォルトを起こし、世界にかなりの影響を与えます。その影響を受け、もともと財政状態が良くなかったアルゼンチンは、実質経済成長率がマイナスになりました。当局は財政再建のため、増税に踏み切りましたが、これがむしろ悪循環を引き起こす、引き金となったのです。2001年の夏、金利高騰のため、ついに国債による資金調達ができなくなりました。金利が上がると、政府は資金繰りができなくなってしまうという事例です。当時、失業率は18パーセントで、巨額の公的債務を抱えて経済危機に陥りました。インフレ圧力に耐えられず、政府は2001年12月に預金封鎖を実施します。
南米の国民性もあって、預金封鎖に対する不満が爆発し、「経済暴動」が起きました。暴徒は商店を襲撃して、略奪を繰り返し、あちこちで経営者が自殺に追い込まれました。フェルナンド・デ・ラ・ルア大統領(当時)は辞任に追い込まれ、政府はとうとうデフォルトを宣言します。対外債務の支払いが停止され、禁治産国になってしまいました。
しかし、それでもまだ混乱は収まりません。翌年から、政府は銀行預金の凍結を徐々に解除していきましたが、現金が戻ってくるわけではなかったからです。預金は10年満期の国債に転換されていました。国民の不満は相当なもので、何とか物々交換で命をつないだといわれています。
●ブラジルでは90年代前半にインフレ率が4桁にまで昂進した
次に、ブラジルの例を見てみましょう。1980年代後半から90年代前半にかけて、10年にもわたって、とんでもないことが起きたのです。ブラジルは1970年代前半、ものすごく繁栄していました。年率約10パーセントの高度成長で、対内投資ブームでした。この頃にホンダなどもかなりの投資をしています。ところが、1973年、オイルショックが引き金となって暗転します。石油をアラブに頼っていたため、インフレが加速したのです。1980年代の経済政策がうまくいかず、インフレは年率100パーセント、南米債務危機の引き金を引きました。
ブラジルは1960年代後半から軍事政権でした。軍事政権下では経済の自由はありませんが、非常に優れた経済学者が登用されて、画期的なインフラ整備計画を次々に打ち出していました。その後に実施された大陸横断道路やダムなどは、全て軍事政権の時の考え方です。しかし、石油危機後の逆風の中、とうとう軍事政権への人気が落ち、民政に移管することになりました。ところが、民政になるとポピュリストの大統領が続々と出てきて、大衆バラマキ型の社会政策が行われるようになったのです。
ブラジルでは1960年代の軍政時代に、当時世界最新といわれたインデクセーションという、インフレを自己調整するメカニズムが導入されていました。しかし、それは過去のインフレが将来のインフレの下限を決めるという仕組みで、超インフレが続くことは予想されていません。その結果、インフレが自動的に加速し、90年代前半にはインフレ率が4桁にまで昂進してしまいました。1986年から1994年まで、何と1,000分の1のデノミ(デノミネーションの略)が4回も行われています。
当時、どうやってブラジル国民は食いつないでいたのでしょうか。1年間で大体1,000パーセントのインフレが起きるということは、毎月、物価が倍になっていくということです。給料をもらうと直ちにスーパーに駆け付けて、食料を大量に買っておかなくてはなりません。月末まで待っていると、物価が倍になってしまうからです。こうした大変な生活を繰り返していたらしいのですが、驚くべきことにカーニバルだけはやり続けたというのです。普通のお嬢さんが、年収の3分の1をカーニバルの衣装代に回すというのですから、熱の入りようが違います。いずれにせよ、楽観的な国民ということです。
状況を打開したのは、サンパウロ大学社会学部のフェルナンド・...