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中途半端な教養の人は知識の「箱」をたくさん持っているだけ

「教養とは何か」を考えてみよう(3)知識の「箱」に縛られない

情報・テキスト
教養が単なる「知識の貯蔵」でないことは、誰もが知っている。知識の「箱」に縛られることなく問いを立て直し、問いと答えの一対一の対応を破り、新たな関係を見いだすためには想像力や発想力が必要とされる。しかし、そうした力を養成することはできるのだろうか。そのための実践的な方法はあるのだろうか。(全15話中第3話)
時間:11:09
収録日:2020/10/26
追加日:2021/05/11
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≪全文≫

●一対一の対応関係を破っていく想像力や発想力


津崎 「自由」についても、またいずれ戻ってくるかと思うけれども、もう少し道具の話にこだわってみると、「問いを書き換える」というふうに前回、言ったでしょ? 「ペンとは何か」「それは書けることである」と答えるような問答ではなくて、もうちょっと別の問いに置き換えていくということを、もう少し考えたい。

 知識の話にもう一回戻るとすると、僕たちは、「お勉強」というのは知識をたくさん習得していくことだと思うよね。例えば、僕が専門にしているデカルト(René Descartes)だったら、何年に生まれたとか、どんな本を書いたということは知識で、知っているか知っていないかという状況しかないじゃない?

 でも、教養がある人というのは、さっきのパスカルの話にも実は関わってくると思うんだけど、「もしかして、それって、このことじゃない?」と気づけてしまう。つまり一対一の対応関係を破っていく。その先にある、全然関係がなかったような知識や情報やデータなどとの間に見えなかったミッシングリンクを見つけるか、あるいはゴリ押しでもいいからつなげてしまう。そういうミッシングリンクを発見する能力、あるいはなかったところに結びつきをつけるような想像力や発想力、それを持った人が教養がある人で、だから全然知識がなくても、何か話していて、「あ、こんなこと、思い出したんだけど」という人は、例えば大学を出ていない人でも教養があると言っていいんじゃないのかな。


●「箱」に入った知識と教養がある人の関係


五十嵐 うん。やっぱりわたしたちが「何かについて」知るときというのは、いつでも「何かについて」の知識だから、「これは歴史のお話でしょ。これは国語の話でしょ」というように、まず「箱」があって。

津崎 そう、箱があってね。

五十嵐 それで、その箱のなかの知識の体系を身につけていくんだけど、箱が与えられているということも一つの縛りになってくる。だから、中途半端な教養の人は箱をたくさん持っていて、「あ、あの箱ね、知っている」「この箱ね、知っている」ということになる。

津崎 しかも、その箱にはラベルが貼ってあってさ。百科全書みたいに、例えば「愛について」とか、「怒りについて」とか、「自由について」とかのラベルが貼ってあって、そこにいろんな知識が入っている。

五十嵐 そういうのを一つ知るということは無駄なことではないと思うんだけど、それで止まっちゃうと、箱を持っているだけの人になっちゃう。でも、そうじゃなくて本当に教養がある人は箱に縛られていない。箱が見えているんじゃなくて、そこにあるいろんな声だったり、いろんな思いだったりするものが全部見えているから、「あ、これとこれ、一緒だね」みたいな感じになるんじゃないかな。

津崎 うんうん。


●「箱」から出るための渡航という「経験」


津崎 箱の比喩で言うと、箱に入っているものを全部放り出して、そこから本当に自由にいろんなものを結びつけてしまうような感じ。でも、そうすると、そういう「能力」というのかな、さっちゃんの言い方でいうとそういう箱に縛られない、あるいはあらかじめ決まった知識の体系に縛られない、そういう縛りから自分を解いていく。あるいは僕の言い方をすると、一見その箱にきれいに整理されているさまざまな知識や情報を自由に結びつけていったり、あるいは見えていなかった結びつきを見いだしていく、そういう能力。

 自分を縛りから解き放っていく。あるいは結びつきを見つけたり、そこに結びつきをつくっていく。そういうのは、どうやって訓練していったらいいと思う? あるいはどういうふうにしたら、僕たちはそういう域に到達できるんだろう?

五十嵐 目的が何かによって方法が変わってくるとは思うんだけど。例えばさっきの「箱」の例で言うと、わたしがドイツに行っていた時にドイツ人の友だちと話していて、「日本ではこうでしょ」とか「ドイツではこうだよね」という話をよくしていたんだけど、でもそういうのは無意味だな、と思うようになった。

 マイクも多分そうだと思うんだけど、わたしたちは日本から出る前、日本から出たことがない間は、「日本はこう、中国はこう、ドイツはこう」というふうに箱で見ている。だけど実はそうじゃなくて、例えばドイツで暮らしていると、だんだん自分がドイツにいるという意識はなくなって、自分と話している相手がドイツ人だという気持ちもなくて、ただもう話しているだけになる。「楽しいな」とか、「いや、なんで分かってくれなかったんだろう」とか。

 「ドイツ人だから分かってくれなかった」と思ったことはなくて、「あの人はなんで分かってくれなかったんだろう。じゃあ、分かってくれるように、もう一回明日言おう」ということで...
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