●日本のインダストリアリゼーションを、食料供給の観点から考える
立命館大学食マネジメント学部の荒木一視と申します。
今日のお話のテーマは、「食料供給のジレンマと日本のINDUSTRIALIZATION(インダストリアリゼーション)です。日本のインダストリアリゼーションは工業化や産業化などと訳されますが、これを労働者への食料供給という観点から読み解いていきます。
これを考える際に押さえておきたいものに、「食料供給のジレンマ」という考え方があります。まず、食料を作っているのは、農村の生産者です。そして、それを食べているのは、都市の消費者ということになります。この際に、仮に食料価格が高い場合、生産者は潤いますが、消費者は少し苦しい立場に置かれます。逆に、食料価格が安い場合、生産者は苦しい立場に立ちますが、消費者は潤います。そこで、食料価格をどのくらいに設定すればいいのかが問題となりますが、生産者と消費者の両方の利益になるような価格設定は難しい。これを食料供給のジレンマとして捉えてみたいと思います。
日本のインダストリアリゼーションを考える際に押さえておきたいのは、工業労働者が基本的には都市の消費者だということです。そして、その工業労働者にどうやって安価な食料を潤沢に供給することができるのか。これが日本のインダストリアリゼーションを支える上で重要なことになってきます。
では、なぜそれができたのか。それを考える際に、もう少し付け加えていえば、食料価格の低下、すなわち食料供給量の増加あるいは安定は、経済成長と表裏の関係にある、といえるということです。
●日本における三つのインダストリアリゼーションと食料供給の在り方
それでは、具体的に日本のインダストリアリゼーションと食料供給との関係を見ていきたいと思います。
日本のインダストリアリゼーションの時期について、そもそもその一番最初の段階をどう見るかですが、明治の殖産興業、つまり明治初期の工業化の始まりが1つ目の時期ということができます。二つ目の時期は第二次世界大戦前で、日本は重化学工業化を進めていきます。三つ目は戦後の高度経済成長の時期です。これも1つのインダストリアリゼーションと捉えることができます。
そこで、この3つの時期にどうやって、インダストリアリゼーションを支える工業労働者に食料供給をしたのか、ということに目を向けます。そうすると、以下のようなことがいえます。
まず明治期の日本の工業化は、外米の輸入が急速に増える時期と重なります。次に第一次世界大戦後(第二次世界大戦前)の重工業化の時期ですが、朝鮮半島と台湾という植民地から、多くの米が内地、つまり日本国内に移入されてきます。これと表裏の関係で重化学工業化が進みました。高度経済成長の時期は、米は基本的に国内で調達したのですが、北米大陸から大量の穀物が入ってくる時期と重なっています。
このように、経済成長の背景にある労働者への潤沢で安価な食料の供給は、日本の近代以降を振り返りますと、海外から安い食料を調達することで、つまり海外に依存することで、実現していました。しかし、もちろんその過程で、第一世界大戦の終わりの頃に米騒動が起こったり、昭和初期の工業化の時期には農村が疲弊したりしました。あるいは高度経済成長の時期には、農村の人口流出や過疎化、あるいは兼業化や高齢化が起こりました。
●明治期のインダストリアリゼーションと外米・南京米
では、まず明治の近代工業が導入された時期から見ていきます。日清・日露戦争の時期ですが、この時、日本の食料供給、特に工業労働者への食料供給において一定の部分を担ったのは、海外からの米です。東南アジアや中国など外国から入ってくる「南京米」や「外米」と呼ばれたものが工業労働者の胃袋を支えました。
このスライドを見てください。1番上のグラフが、1800年代から2000年代に至る日本の人口の推移を示したものです。下から2番目のグラフは、米の収穫量の変化を示しています。一番下のグラフは、参考として麦の収穫量を載せています。そして、人口と米のデータを元にして、一人当たりの米の収穫量、つまり日本人一人当たりどのくらいの米を取っているかを示したものが、真ん中の折れ線グラフになります。
日本の最初の工業化が進む日清・日露戦争の時期を見てみますと、1890年から1910年の間には、日本人一人当たりの米の収穫量は下がっています。下がっているということ...