●不平等条約解消、三国干渉受諾の偉業を成し遂げた英明
陸奥宗光がどういう人であるかは、歴史の授業にも出てきます。ここまでに、参議など大臣クラスの官職名が出てきましたが、きちんとした定めはありませんでした。初めての憲政内閣になるのが伊藤博文内閣であり、そこで外務大臣を務めたのが陸奥です。
幕末より日本は不平等条約に悩んできましたが、一連の不平等条約改正に当たったのが陸奥宗光の大いなる偉業でした。その後、日清戦争が始まると軍略に詳しいことからやはり外交の任に当たりますが、終結時には三国干渉を受けることになります。
三国干渉は、ロシア・フランス・ドイツからの圧力で、日本が中国から取り上げたものを返還するようにという勧告でした。伊藤博文は困り果てます。天皇陛下は当時、前線の広島で執務をされていて、閣議も広島で行われていました。陸奥はこの頃、肺結核を患って療養中でしたが、その病床で閣議が開かれました。高熱の陸奥でしたが、どうしたらいいか問われると、言下に「三国を受け入れるように」と答えました。
この干渉に対して伊藤には、戦争に勝っている以上、不当ではないかという考えがありました。列国会議を開き、公平な審判をすべきだという考えだったのですが、陸奥は、「そんなことをすると大騒ぎになり、決着がつかなくなる。外交巧者の中国が何をしてくるか分からない。この機に乗じ、三国に応じて速やかに賠償し、遼東半島を返せば、それで片付く」と言う。実際、それ以降は沙汰止みになり、日本は大混乱に巻き込まれずに済みました。陸奥はこの後ほどなく亡くなりますが、彼のような人物が明治初年にいたのです。
●日本外交の草分けとして新政府をリード
若い頃の陸奥は、当時の風潮として誰もがしたように尊皇攘夷を説き、人物という人物の門を訪ね、勉強に励みました。勝海舟が陸奥に着目して海軍操練所に入れますが、海軍操練所は素性の正しからぬ脱藩者がいるということでお取りつぶしとなります。その後は坂本龍馬の海援隊に入り、倒幕運動の行動家になっていきます。
自伝によると、陸奥は鳥羽伏見の戦いがまだ決着を見る前に「独り天下の形勢を察するところがあり」、幕府軍の後をついて大坂に赴き、後の駐日公使アーネスト・サトウを通じて、パークス(幕末~明治初期の英国公使)に面会を申し入れます。今後の新政府の外交をどうしたら良いかについて、公使パークスと話し合ったのです。その結果を持って京都に戻った陸奥は、岩倉具視に意見書を提出します。その内容は、「これからは、まず開国だ。進歩主義を取る他なく、その第一歩として、大坂の各国公使に対して王政復古を通知し、開国政策を明らかにすべきだ」という趣旨でした。
岩倉は、膝をたたいてこれに賛同し、鳥羽伏見の戦いのわずか5日後、1月10日付で各国に対して王政復古を通知する外交文書を送っています。また、国内に対しては同じ日に「大勢まことにやむを得ず、このたび朝議の上、断然和親条約取り結ばせられ候」と弁明を行いました。翌11日、岩倉は陸奥を外国事務局御用掛に任命します。同じ日に任命されたのは、伊藤博文など薩長の錚々たる俊秀ぞろいで、中でも陸奥は最も若い25歳でした。
新政府の中央に地位を得てから、陸奥の活躍はすさまじいものがあります。まず、甲鉄艦の引き取りです。幕府はアメリカに甲鉄艦を注文していましたが、南北戦争に突入したアメリカは、それどころではない。やがて1艦だけ渡してきましたが、幕府は「まだ50万ドルが残っているだろう」というので、それを受け取る交渉に出向きます。
アメリカは局外中立を主張して、幕府と新政府のどちらにも付かないと言いますが、陸奥は政府軍がすでに京都、大坂、江戸を押さえている事実を明確に説明し、新政府の正統性を認めさせることに成功します。
購入費用は50万ドルですが、一円もない。そこで大坂の豪商を集めて新政府の権威を背景に御用金を申し付ける。その作戦は周到で、まず三井の番頭から交渉を始め、見事に成功する。御用金を差し出しておくと、後でいい目にあえると知っている人たちを相手にしたわけです。
●早すぎた「廃藩置県」の意見書と下野
このように、維新直後の大混乱にある政治の空白期には、能力本意で陸奥のような人物も登用されますが、少し落ち着いてくると薩長の藩閥系の人物がどんどん出世していきます。陸奥は憤然としてなんども辞表を出しますが、受け入れられません。
陸奥は、兵庫県知事に任命されて赴任しますが、ここで師の吉田松陰曰く「周旋屋」の伊藤博文と仲良くなり、二人で明治維新の主要課題であった廃藩置県の意見書を書き上げます。これについて説明をするものの、耳を貸す人がいません。戊辰戦争で薩長は10万石もの加増を受けたばかりですから、「...