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部下を育てるには、まず佐藤一斎に学べ!

重職心得箇条~管理職は何をなすべきか(1)時代に請われ、時代に応えた佐藤一斎

田口佳史
東洋思想研究家
情報・テキスト
東洋思想研究者・田口佳史氏は、名臣のフォロワーシップがあってこそリーダーシップが発揮されるにもかかわらず、今の日本には臣下の人材育成が不足していると言う。そこで、田口氏が注目したのが佐藤一斎とその書『重職心得箇条』だ。今回は、一斎の人に焦点を当てる。(全15話中第1話)
時間:10:46
収録日:2015/12/22
追加日:2016/04/04
≪全文≫

●リーダーを支える側近育成が必要


 今日は、佐藤一斎が記しました『重職心得箇条』について、お話しします。佐藤一斎は、まず自分の藩の若い藩主に対して、藩主の職についての心得書を書きました。それに対し、藩主を盛り立てていくナンバー2以下の臣下に対しての心得を記した書が『重職心得箇条』であります。

 私は、常日頃より東洋のリーダーシップに非常に関心があり、ひたすらリーダーシップの方を一生懸命究明をしていますが、リーダーシップだけではこれは成り立つことはない。やはり今度は臣下、フォロワーの側からいうフォロワーシップというものがあって、両方が相まってリーダーシップが発揮されるわけです。このことは、唐の太宗の『貞観政要』という書物を見ていただければ分かるように、太宗だけではいかんともしがたかったわけで、その下に王珪(オウケイ)や魏徴(ギチョウ)など、そういう名臣がいたからこそ、あの唐という国は成り立ったのです。これは、徳川家康も全く同様です。

 したがって、今日、各社を拝見して非常に思うことは、「立派な社長さんだな」「リーダーだな」と思う反面、「この人にもっといいナンバー2、ナンバー3、側近が付いたら本当にすごいのになあ」と思うばかりです。どうも今の世の中、この側近育成、要するに名臣を育てるということに対して、非常に劣っているのではないか。そのように思えば思うほど、今日のこの『重職心得箇条』という、要するに臣下の心得というものは非常に重要であると思います。そういう意味では、ここで取り上げる意味合いが非常にあるのではないかと思っているわけです。


●時代が請い、時代に応えた佐藤一斎


 いきなり『重職心得箇条』に入る前に、この佐藤一斎という人を少しご紹介してから始めたいと思います。佐藤一斎は、1772年に生まれました。このような幕末の人をはかるときに基準になるべきなのは、1868年の明治維新です。その人の生まれ年が、1868年に対してどうであるのか、何年の差があるのかということで、大体その時代背景とともに、その人の存在意義がはかられるということです。そういう意味で言えば、この佐藤一斎という人は、明治維新のちょうど96年前、100年近く前の生まれで、1859年、87歳まで生きていますから、幕末の明治維新の9年前に亡くなるわけです。したがって、私流に言えば、佐藤一斎は明治維新の志士を育てるために生まれてきたような人物なのです。

 私はよく、「時代は人物を要請し、人物は時代に応えることが重要だ」と言っています。このようになっている国家は非常に発展、繁栄するけれど、そうでないところ、つまり、時代が要請してもなかなか人物が現れないというような国家はやはり衰退してしまいます。これは、企業なども拝見していると、全く同じことが言えます。


●一斎の人生を決定づけた二つの要因


 一斎は美濃の国、今の岐阜県岩村町の出身です。家老の息子ですから、全て江戸詰めであったため、1772年、江戸の浜町にある藩邸で生まれました。岩村藩は小藩ですが、非常に格式の高い藩でした。それこそ、藩主は歴代「松平」を名乗るという非常に格式高い藩です。一斎の父はそういう藩の家老でした。一説には、祖父が非常に学問が優秀で、そのようなことを賞賛した藩主一族が父を家老にしたという話もあります。やはりそういった家系に生まれたということが、まずこの人の運命を表していると思います。したがって、徹底的に幼年教育を施されて、それこそ物心つくかつかないかで『四書五経』を早くも学ぶわけです。

 もう一つ、藩との関係で、一斎の人生を非常に左右したのは、この時の藩主の三男である、 松平衡という人の存在です。この人が優秀な人だったのです。江戸時代の一つの風習で非常に素晴らしいと思うのは、長子相伝ですから長男が家督を継ぐのですが、次男が優秀、三男が優秀、四男が優秀というように人をうまく育てて活用し、人材は一人として無駄にしないということがありました。

 このことの基本になっている政治理念の中に、「正徳利用厚生」があります。「利用」とは、今は「利用する」とか「利用される」とか、非常に貧しい使い方をしていますが、これは「人材を十二分に活用する」という意味です。そして、その活用の一つの方法論として養子縁組がありました。ですから、松平定信などは、全国の藩の次、三男をよく見て、優秀な人間をちゃんと書き留めて、どこかで長男がいなくて「養子はどうですかね」と聞くと、「ああ、じゃあ、この人」と、人材を斡旋するような仕組みがあったのです。この松平衡もどこへ行ったかというと、なんと林家です。林羅山以来、この林家が幕府の学問をずっと取り締まっていました。今で言うと、文部科学大臣のようなものです。その林家に跡継ぎが...
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