●正義と不正を説明するための「魂の三部分説」
プラトン『ポリテイア』の議論を追ってきました。今回は魂というものの議論についてご紹介します。
魂をギリシア語では「プシューケー」といいますが、このテーマは実は今までも何度か出てきていました。覚えていらっしゃるかと思いますが、ポリスの正義を考えるにあたって、魂とポリスとの対比がなされたところ、そして、初等教育論のところでは学芸と体育という2つのプログラムが魂の教育であると語られていました。
実はこの『ポリテイア』という対話篇は、魂が本当のテーマではないかともいわれています。国家論を議論しているように見えるかもしれませんが、全体のフォーカスは魂のあり方というところにあるのではないか。その意味で今日お話しする話は、中心に関わっているとご理解いただけると思います。
プラトンの魂論では『パイドン』という対話篇に出てくる「魂の不死論証」が有名ですが、(『ポリテイア』では)少し違う角度から魂について検討がされていきます。どう違うかというと、今日お話しする「三部分説」で、「魂は3つの部分から成り立っている」という新しい説をプラトンが唱えているのです。
なぜそんな議論をするかというと、正義と不正を説明するためです。これはおいおい(申し上げますが)、今後不正を課題としていく中では、欲望の問題が大きくなっていきます。それを考察するために、魂には違う能力(パーツ)があるのだという考えを導入する。それが今日のお話になります。
さてすでにお話ししたように、「正義とは何か」を考えるにあたって、ポリスと魂の2つを類比関係で捉えるのが、この話の進行状況です。
ポリスの正義、つまり社会の正しいあり方と、人の正しい生き方というのは、大きな正義と小さな正義という形で、いわば類比関係になっているという話でした。その中で、最初にポリスを見ていこうという話を(前半では)していたわけです。
●ポリスと魂を交互に見れば、正義が輝き出す
ここからは、魂のほうに目を向けてみましょう。どうしてかというと、正義というのはおそらくどちらにもあるわけです。ポリスの正義において、正しい社会と正しい個人のあり方を見比べていくと、両方をかわるがわる見る間に「正義が輝き出す」と、プラトンはやや文学的な表現を使っています。要するに、正義とは何かを見るためには、ポリスの正義と魂の正義を両方見比べながら考えていくという方針です。
これで正義が全部分かるかというと、実はもうすこし長い道のりが必要だということも言われるので、ここは暫定的なお話だということをお断りしておきます。
さてこの議論は第4巻で行われる議論ですが、結構複雑なので、要点をごくかいつまんでお話ししたいと思います。正義というのは4つの徳の1つです。正義をはじめ、知恵、勇気、節制で、4つです。「ポリスにも魂にも徳があるはずだが、それはどうやって実現するのか」ということを考える上で、「三部分説」という考えを用いてこの類比を捉えていきます。
今まで描いてきた人間のポリス(共同体)のあり方はどういうものかというと、役割に応じて3つのグループがあるではないか。「階級」というやや近代的な呼び方はしませんが、いわば階層やグループがある。1つは生産者のグループ。農業や工業や商業を営み、われわれが生きていくための物を作っていくような生産者たち。そして、前回も少し話題になりましたが、国を守る軍隊、「軍人」がいます。そして一番上に「守護者」と呼ばれますが、トップの政治家、国を守る人がいます。軍人と守護者というのは、もともとはひとまとまりだったのですが、役割によって2つに区切られるので、最終的に3つのグループになります。
ポリスがこういう形でできているとすると、正しいポリスのあり方は当然、そのバランスが取れているということです。つまり、軍人は国を守るために自分の役割をきちんと果たし、守護者は己の利益ではなく国全体の利益を考え、生産者はもちろん自分で最大限に生産をする。この3つのパーツを考えていく中で、4つの徳がどう実現していくかということを見ていきます。
●理性・気概・欲望――魂の中にある3つの部分
これに対応して、一気に話をこちら(魂)に持ってきますと、実は私たち一人ひとりの魂の中にも、これに対応する3つの部分があるのではないか。これは新しい提案です。社会の中にこういう3つのグループがあるのは、言われればそうかと感じられますが、魂の中に3つのパーツがあるというのは、新しい議論になるのです。
1つは、われわれが「理性」と呼ぶもの、つまり知的な判断によって思考し、判断するという理性。2番目は「気概」といいます。日本語では「気概がある」といった表現以外であまり使いませんが...