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海外への関心の高まりと公武合体による開国論

明治維新とは~幕末を見る新たな史観(7)公武合体と開国の道

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
咸臨丸
公立大学法人首都大学東京理事長の島田晴雄氏によれば、曲がりなりに成立した開国後に重要となったのは、政治の主導権を朝廷と幕府のどちらが握るかという問題であったという。開国によって徐々に列強国を圧倒するべきだという論調が強くなっていく中、朝廷と幕府の間にはどのような動きがあったのか。(全17話中第7話)
時間:13:24
収録日:2018/07/18
追加日:2018/10/28
タグ:
≪全文≫

●公武合体による攘夷の期待が高まる


 徳川慶福は新将軍として家茂に名前を変えましたが、その時、彼はまだ13歳で、当然独身でした。そのため、殺される前の井伊直弼大老の重要な政治課題は、家茂の嫁選びでした。

 特に井伊は、家茂の嫁は皇女を迎えたいと考えました。なぜなら、天皇の親戚を幕府の嫁にすれば、公武合体、つまり皇室と武家が一緒になって一国をまとめられるだろうと考えたからです。ところが、桜田門外の変で井伊が殺されてしまったため、幕府に対して朝廷は優位になり、幕府は朝廷に一歩譲る形になりました。つまり、実は対等な関係である公武合体ではなく、朝廷がやや上の立場という公武一和になったということです。

 幕府はこの公武合体にこだわり、有栖川宮と婚約していた孝明天皇の妹である和宮内親王の降嫁を繰り返し要請しました。それを仕込んでいたのは岩倉具視です。岩倉はこの時35歳で、策略家でした。日米修好通商条約をめぐる違勅問題の際、堂上公家が中心となって条約案撤回を求めた抗議運動である、廷臣八十八卿列参事件の首謀者でもあります。

 岩倉は公武合体を理由にして、和宮は降嫁をした方が良いと主張しました。なぜなら、和宮降嫁を許可することによって、今後は外交や内政の重要な事項について幕府は朝廷にお伺いを立てざるを得なくなると考えたからです。そうすると、朝廷が常に幕府に命ずることになるので、大政委任の名義を幕府が持っていたとしても、実権は朝廷にあることになります。このような権力関係の実現は、攘夷の実現に結び付くので、孝明天皇はこれに異を唱えませんでした。

 しかし、幕府は異なる考えを持っていました。幕府は阿部老中以来、開国しなければ日本は維持できないと考えているため、ずっと開国派が主流です。そのため、朝廷に攘夷を要求された際、今後7~8年後(ないし10年以内)に攘夷を断行すると誓約し、和宮降嫁が実現しました。これが意味するのは、幕府から見れば、最低6年間は攘夷を遂行せず、朝廷のお墨付きで外国と交際し、徹底的に西洋の文明を受け入れて良いということです。その頃には、世の中の流れが変わっているだろうという見通しがあったようです。こうした流れで、和宮は文久元年(1861年)に降嫁しました。


●幕府の遣米使節団


 こうして一応、開国が実現しました。ここで面白いのは、以上のような一連の騒ぎののち、条約をもう一回批准するために、日本からアメリカに船を出したということです。軍艦ポーハタン号を借り、1860年に横浜を出港します。この幕府による遣米使節団はニューヨークに着くとブロードウェイで大歓迎されました。槍持が先頭に立ち、ちょんまげ、二本差しでブロードウェイを行進し、熱狂的な歓迎を受けました。日の丸の国旗は、もともと島津家の家紋が元になっているようですが、ニューヨークの人々はこの日の丸と米国旗の両方を掲げて歓迎しました。

 そこで、岩瀬忠震がアメリカ軍艦だけでなく、日本軍艦の派遣を建言します。ポーハタン号だけではアメリカ軍艦による遣米になってしまうので、日本独自の船を出すべきだと考えたのです。

 そこで、オランダから買ったばかりの、100馬力、300トンのスクーナーコルベット艦という小さい船に「咸臨丸」という名前を付け、アメリカに向かいました。長崎伝習所で航海技術を習い始めてたった4年でしたが、木村摂津守喜毅が提督、勝海舟が艦長として、井伊により渡米が発令されました。冬の北太平洋は荒れ狂う道の荒波であり、長崎海軍伝習所のオランダ教官ですら、航海の経験がありませんでした。

 咸臨丸の渡米が実現したのは、アメリカ海軍のジョン・ブルーク大尉以下10名の船員のサポートがあったためです。ブルーク大尉は、自身の乗っていたアメリカ測量船クーパー号の艦長で、嵐で船が難破したため横浜で帰国の便船を待っていた際、幕府からサポートを依頼されました。

 ブルーク大尉がいなければ、咸臨丸の渡米は実現しなかったと思います。日本の船員が驚いていたのは、ブルーク大尉や彼が連れてきたベテラン船員が暴風にあおられる激しい航海を、縄ばしごを登るなどして対処し、なんとか乗り越えたことです。

 アメリカに着くと記者団がブルーク大尉のところにどっと来て、「日本人は本当に荒波の中の航海を実現したのか」と聞いたところ、ブルーク大尉は「日本人は独力で大変を横断した知恵と勇気のある人々だ」と答えました。木村摂津守は渡航に際して金を工面していたので、その中から謝礼金を渡そうとすると、ブルーク大尉は「日本人のあなた方の勇気のある手伝いができただけで十分だ、グッバイ」と辞退します。かっこいいですよね。任務であったため、断ったのです。


●咸臨丸に乗船した福澤諭吉の本気


 木村摂津守は出港前、乗員の俸給を工面するなど渡航...
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