●「学ぶ人は一人にしておいては駄目だ」
―― では、次の質問に進みます。
今日のお話の冒頭で「教養とは何か」といったときに、一つは、パソコンのキーボードのお話がありました。自分がキーボードを打っているという意識がなくなるぐらいに通じれば、それで自由になれる。例えば書き味のいいペンのように何の抵抗もなくすらすら書けると、本当に自由にそれを意識しないで書ける。そこまでいくのが、一つの教養であろうというお話でした。一方、後半では、身につけた知識の「鎧」のようなものを脱いで、本当の自分を磨き上げていくという議論もありました。
では、学ぶ側からすると、どうやって学べばいいか。キーボードを打ちこなせるぐらい(練習すればいいのか)。例えばルソーならルソーをずっと読んでいくと、ルソーについてはある程度どんな質問が来ても、もう全部答えられるようになりましたというのが、もしかしたらキーボードで自由に打てるという状況かもしれないですよね。では、それが「鎧」になってしまうのはどういうときで、それを脱ぐというのはどういうことなのか。学びにおいては、どういう意識をすべきか。そのあたりについて、どのようにお考えでしょうか。
津崎 1628年頃、デカルトが32歳の時に書き上げられなかった本があって、『精神指導の規則』というなかなか意味深なタイトルです。精神を指導するための規則のなかで、こんなことを述べているんだよね。
若い人、学ぶ人は一人にしておいては駄目だと。やっぱり教師が一緒になって学んでいかなきゃいけないということを言っている。そうしたほうが、たとえそれが間違った道だったとしても、どこかにはたどり着くことができるだろう。あるいは、そこまでいかずとも、少なくとも正しい道を一緒に歩いていくことができるだろうと。
なので、まず最初はやっぱり誰かお気に入りの師匠を見つけるといいと思います。それは、ルソーだろうが、デカルトだろうが、ハイデガーであろうが、誰でもいいけれども、「一人で」というのは学びにおいてはとても難しいし、もっと言ってしまうなら不可能だと思います。
●入学式は「終わりの始まり」──学ぶ人は師匠から離れるときがくる
津崎 誰かと一緒に学んでいく。それは読書であるかもしれないし、授業に出ることであるかもしれないけれども、そうするなかで、いろんなことに応用可能な能力がつく。ルソーが読めるんだったら他の哲学書も読めるようになるという、可塑的な能力ですね。可塑の「塑」というのは、いろんなものに変わることができることで、そういう可塑的な能力を、おそらく身につけることができる。
それが「キーボードが打てる」、つまりどんなキーボードでも打てるということでしょう。能力というのは、ある一つのオブジェクトに限定されていては能力ではなくて、何が来ても打ち返すことができるのが、本当の意味での精神的な能力だと、少なくともデカルトはそう考えているわけだよね。で、多分これが学びにおいては重要で、と同時に、人はいつかそういった師匠から離れていかなきゃいけないこともまた事実。じゃ、どういうときに離れるかといったら、それは自分のなかにある程度ドライブできる能力ができたとき。
唐突だけど、どうして入学式と卒業式があるかということを考えると、同僚たちはどう思っているか分からないけど、僕は入学式と卒業式、特に入学式では、「いずれこの人たちとは別れる」と分かっているわけだから、全然うれしくない。というか、入ってきてくれたから、これから4年間一緒に勉強できる、一緒に学問ができるのは非常にうれしい。でも、いずれあなたたちが自分で歩いていくときが4年後に来るのは、もう決まっているわけじゃないですか。そういう意味では、「終わりの始まりである」という意味で、いつも入学式はちょっとさみしい思いがしています。
おそらく学びの秘訣はそこだろうと思います。誰かと一緒に学ばなきゃいけないんだけど、いずれその人から身を引いていくというか。自分から離れるか、あるいは師匠から独り立ちさせられるか、それは分からないけれども。今質問を頂いて、そんなことを考えました。
●「鎧はわたし」という状態になって、摩擦を起こさず世界のなかに存在していることが問題
五十嵐 なんかマイクのお話を聞いているうちにちょっと質問を忘れそうになったんだけど、思い出せる範囲で言うと……。
津崎 パソコンが使えるということは、「身につける」ということでしょ?
五十嵐 それと「鎧」と。
津崎 ということは、何かこう自分からそれを削いでいく、あるいは脱いでいく。「身につける」と「身から引き離す」ということ。
五十嵐 順番が多分逆なのかなと思っていて。パソコンを身につけて、それから鎧を脱ぐというよりは……。
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