●「年金村」の社会的影響力は極めて大きい
財政や社会保障の仕組みを、国民に対して意図的に分かりにくいものにしているメカニズムの2つ目が「年金村」です。年金についても、「国債村」と似た政治社会集団が存在しているのです。ただし、「年金村」は「国債村」のように、それなりに制度化され、参加者も知られ、議事録もあるというような、目に見える存在ではありません。「年金村」の参加者が誰かは、当事者が部分的に知るだけで、参加の程度も人それぞれで、全貌は不透明です。議事録どころか記録も、全くありません。しかし、その社会的影響力は、実は極めて大きいといわざるを得ないと思います。
なぜなら、年金制度に象徴される社会保障の諸制度は、国民各層の生活と人生を支え、できるだけの安定を保障する制度だからです。その制度が設計され、機能する社会は、しかし常に変動します。制度の受給者もさまざまですし、歳を重ねていけば、体力も能力も変化します。病気や障害のある人々も多い。そうした国民各層の個人の全生涯にわたって、一定の生活保障を提供するという仕組みですから、必然的にそれは膨大かつ複雑なものになるのです。
実際、社会保障制度は、社会経済や国民全員の年々の変化に応じて改定され、時機に応じて大規模な改革が必要となるシステムです。その改変や改革は、政府の担当部局である厚生労働省の担当責任者が常に構想し、準備します。改変や改革のプロセスには、当然、内閣や政党、政治家、労働組合、経営者、メディアや世論などが深く関わります。システムの改革は、そうしたプレーヤーたちの政治的な相互作用の結果として、ようやく結実するものです。
●1980年代、旧厚生省の幹部が大改革に取り組んだ
日本の年金制度は、第二次大戦中に戦費調達の一環として発足しましたが、戦後には再構成されて、経済発展の過程で、勤労者そして一般国民の老後生活の一定の保障を提供する制度として発展してきました。日本経済の発展過程では、拠出基金の蓄積も少なく、経済社会も激しく変化したので、さまざまな制度がその都度、必要に応じて設定され、またその都度、修正されてきており、全体としては統合性のない煩雑な制度になっています。
ところが、高度成長期が終焉に向かう1980年代に入ると、年金行政を司る旧厚生省の幹部たちが、歴史的画期となる大改革に取り組むことになりました。成熟段階に入りつつあった日本経済の中長期的将来について、一定の展望が見えてきた時期でした。
その象徴的な例が、1985年の改革です。この改革は大変、総合的でした。特に、基礎年金の導入が挙げられます。今まで、縦割りでばらばらだったものに、大きな横串を刺した改革です。横串となるものが、基礎年金でした。この仕組みは、大多数の低所得者層の人々の生活を保障することを明確に示したものです。
さらに、専業主婦を3号年金者にするということも行われました。それまでの日本社会は、夫が正社員で会社に勤め、奥さんは専業主婦というケースが一般的でした。もちろん今とは全く異なりますが、それが当時の大部分を占めていました。当時、かなりの数に上る専業主婦は年金拠出金を支払っていませんでした。彼女らが年金受給年齢になったときに、年金を給付するかどうかが問題になりました。そこで、専業主婦を3号年金者と名付けて、拠出金を払っていなくても、夫の家族の一員として、払っていたことにすると改革されたのです。これで処理が非常に簡便化されます。働いている女性からは激しい批判が出たのですが、それも何とか乗り越えて、大改革に踏み切ったわけです。
さらに、年金財政が危なくなるということも、厚生省ではすでによく分かっていました。そのため、給付水準を国民にあまり気付かれないように、徐々に徐々に減らしていくという決定もなされました。給付乗率という大変小さい係数を組み込んだのです。効果が出るには長い時間がかかるため、国民が気付いたときには、もう後の祭りだという仕組みでした。
これらはまさに大改革です。厚生省から見れば、年金を統一し、給付から外された階層もそこに組み込んで、しかも給付額を徐々に減らすことができるのです。この改革によって、日本の年金制度のほぼ完成形を構築したというのが、担当者たちの自負でした。構築作業はあまりにも負荷が大きく、その過程で、1950年から年金改革を担ってきた有能なY局長が疲れ果て、殉職するということもありました。国会で法案が通るときに、奥さまが遺影を持って、議場に出ておられたのが印象的でした。
●「年金村」は情報を選別・加工・誘導する閉鎖的な凝集体である
しかし、年金という複雑極まりない対象、しかも政治プロセスで翻弄される対象について、歴史的に画期的となるそれなりの完成形を構築したと...