●明治天皇は、新政府にとって「正統性の根拠」
明治天皇と新政府の関係を一言でいうと、明治天皇は新政府の正統性の根拠です。明治天皇は、孝明天皇の第二子として、権大納言中山忠能(ただやす)の館で誕生したといいます。母親が孝明天皇の側室に入っていたためで、要するに嫁側の実家で生まれたわけです。
この数年後に孝明天皇が崩御しますが、崩御が発表されないまま、睦仁親王(後の明治天皇のこと)の践祚(せんそ)が内定します。慶応4(1868)年、天皇がまだ16歳の時であったため、新政府が「少年を抱え込んだ」という形容もなされます。
天皇が即位すると、中山大納言をはじめとして徹底的に宮中改革をしようという動きが起こります。先代の孝明天皇が宮中で生まれ育ち、即位後も最後までずっと宮中を離れない方だったからです。
これは一見いいようですが、実は大問題があります。取り巻きが女官ばかりで、独特な雰囲気を持っている。そして、外の世界をまったく知らない。そして、孝明天皇は外国人が大嫌いで、徹底的な排他主義でした。そういう天皇では困るので、文武両道に秀で、率先して先頭に立つ天皇をつくりたいと大久保利通は考えていました。彼のイメージにあったのはヨーロッパの皇帝です。女官に囲まれて密室で育つような、なよなよした人間ではない。これは、非常に大きな転換だと思います。
●天皇が時間的・空間的な日本の象徴となる
天皇誕生日は旧暦9月22日ですが、太陽暦では11月3日、これを「天長節」とします。なぜ天長節か。天皇は、時間的に、空間的に日本の象徴でなくてはいけないからです。
明治天皇の時代をもって「明治時代」という。明治天皇が崩御されれば次の時代が来る。これは、天皇の人生と時代(元号)がいちいち連動する時間的支配です。江戸時代はそうではなく、天皇が変わっても時代の名前は変わらなかったり、天皇がいても時代は変わったりしていました。それを変えました(一世一元の制)。
それから、空間的象徴についてですが、江戸時代の天皇は、人々の目に留まりませんでしたが、明治では以下のことを行いました。2018年が150周年に当たりましたが、慶応4(1868)年の7月に江戸を東京(「東の都」)と改称し、9月20日に明治天皇の東京行幸が敢行されたのです。慶応4年は9月8日をもって明治元年になります。その10月13日、天皇は初めて東京の土を踏みました。東京の民衆は、盛んな歓迎をしました。東京滞在中の天皇は外国公使にも進んで引見を行い、各国公使は天皇に国書を奉呈します。これは非常に重いことです。
周りを女官に固められた孝明天皇は外国人を忌避していましたが、明治天皇はまったく違います。そのような国造りをしようと、大久保利通を中心に頑張ったからです。さらに大久保は、天皇を取り巻く公家たちの一掃を考えました。女官にもかなりの問題がある。奥向きの空間に置いておくと、天皇の成長に影響があるというのが大久保の考えでした。外国の公使と引見しようとすると、女官が「紅毛碧眼の異人に会うなど止めてください」と引き止めることも先代ではあったようなのです。
大久保は、この問題を解決するために西郷隆盛に協力を要請します。西郷は承知して、公家に代わる側近として勇猛果敢な村田新八を選んできます。こうして宮中に質実剛健な気風が生まれ、侍従らは天皇の心身の鍛錬に注力します。なかなか大変だったと思いますが、まだお若い天皇は進んで自ら鍛錬されるようになったといいます。
●「親臨」と「直裁」で著しく成長された明治天皇
明治5(1872)年に「徴兵の詔勅」が出されます。留守政府の下ではあるものの、天皇が国家軍隊の最高統率者であることが名実ともに示されます。
さらに、空間的な中心であることを示すために、天皇は国民の前にしばしば現れるようになります。例えば、最初に行われた「西国巡幸」の時、天皇は5月23日、西郷参議以下70名を従えて騎馬で皇居を出発。品川から軍艦に乗り、水路で伊勢神宮に参られます。
天皇の巡幸は、天皇が国民から目に見えるようにすること(可視化)で、古代に「国見の行事」として行われていたことが復活したわけです。西国巡幸は49日間に及び、その後、明治年間に天皇は97回の巡幸をされ、うち地方巡幸が60回という大した記録を残されています。
そのかたわら、天皇は政治の勉強を重ね、閣議にも列席されるようになります(親臨)。そして、難しい問題については、直接裁可を下されるようになります(直裁)。明治年間において大きかっただろうと思うのは、明治14(1882)年の政変があった時のことです。
この直前まで、日本経済のインフレを収束させるため、大隈重信がいろいろな手を尽くしていましたが、ついに外債を大量に発行してバランスを取ろうという提案を...
(幟仁親王が揮毫した御誓文の原本)