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福沢諭吉の西郷隆盛に対する痛切な評価

明治維新から学ぶもの~改革への道(19)福沢諭吉と明治政府

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
福沢諭吉
(明治24年頃の写真)
政情定まらない明治最初の10年間に、福沢諭吉の慶應義塾における教育と著作による知的活動は、世の注目を集めた。明治国家の構築に参画していく福沢と明治政府首脳との関係は複雑だったが、西郷隆盛には同情的で、西南戦争直後、賊とされた彼を評価する文章を残している。(2018年11月13日開催島田塾講演「明治維新とは:新たな史観のこころみ」<後編>より、全22話中第19話)
時間:04:08
収録日:2018/11/13
追加日:2019/05/04
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≪全文≫

●明治の元勲たちと福沢諭吉


 福沢諭吉は、西南戦争前後からようやく政府の動きに付き合い始めるようになります。明治六年政変の折、大久保利通は政府改革のために伊藤博文に立憲政体に関する意見書を作らせますが、その時に「福沢を一員に加えたらどうか」と提案して、「福沢が入ると影響が強すぎる」と、伊藤に退けられています。

 台湾出兵を経てリーダーになった大久保は、大阪で木戸孝允、板垣退助との三者会談をします。征韓論で政府を去った板垣を入れ、台湾出兵で政府を去った木戸を迎え入れ、新しい体制で旅立つわけです。

 その後、大久保と意見が合わなくなった板垣は民権運動の方へ進んでしまいますから、残った木戸が批判にさらされました。福沢はなぜか木戸と気持ちが合ったようで、さまざまに激励を送っています。木戸は福沢の親切に感謝しつつ、自分は国家のために尽くすと言ったようです。

 さて、福沢が初めて大久保と会ったのは明治9(1876)年で、この時のことは記録に残っています。大久保は福沢に対して、「天下流行の民権論も宜し、されど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなかるべからず」などと言ったそうです。福沢は自分の記録の中で、それは「暗に私を目して“民権論者の首魁”と認めたかのよう」だったとし、次のように返しています。

「国民には政権と人権がある。政事は政府が自由にやればよい。しかし人権については譲ることができない。官吏が平民を軽蔑するのは封建時代の武士が百姓町人に対するのと同じで良くない。自分が争うのは人権の方だけである。しかし、いつか政権の議論も盛んになり、大騒ぎになることもあるだろう。そのとき自分は決してその動きに加わることはなく、『今日、君(大久保)が民権家と鑑定を付けられたる福沢がかえって着実なる人物となりて、君らのためにかえって頼もしく思われる場合もあるべし。幾重にも安心あれ』と述べた」(『福沢全集緒言』)

 大変えらい人物だと思います。


●「天下の人物」西郷に対する福沢の痛切な評価


 西南戦争になると、征韓論には反対だった福沢は、西郷に深い敬愛の念をもって事態を注視したようです。西南戦争が終わり、西郷が城山で自決した直後に、福沢は『明治十年丁丑公論』という定期的に出版している随筆集に、こう書きました。要点は二つ。

1.抵抗の精神は重要である。維新以来、抵抗の精神は消滅しつつある。西郷が武力で抵抗したことは賛成できないが、その抵抗の精神は重要。
2.反乱者の扱いは寛容にすべき。

 この論で福沢は、西郷が皇室崇拝の念が厚く、個人的な徳義を備え、政党に対する態度などもまことに立派な人物であると賞揚して、最後にこう結びます。

「西郷は天下の人物なり。日本狭しと雖も、国法敵なりと雖も、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや。日本は一日の日本に非ず。国法は万代の法に非ず。他日この人物を用いるの時があるべきなり。これまた惜しむべし」

 西郷が賊軍視されていた当時は非難が集中して危険なので、この議論は10年後に初めて世に出ました。
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